輝国山人の韓国映画
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キム・ギヨン
金綺泳
김기영
Kim Ki-Yeong

1919年 10月1日 出生
      キョンギ(京畿)専門学校を出て小学校の教師をしていたキ
      ム・ソクチンとキョンギ(京畿)女子専門学校出身であるハ
      ン・ジンチョの1男2女中一人息子としてソウルのキョドン
      で生まれた。

      キョドン小学校に通っていた3学年の時,ピョンヤン(平壌)
      に引っ越して,チョンノ(鍾路)普通学校を卒業した後,ピ
      ョンヤン(平壌)高等普通学校に進学した。

      ピョンヤン(平壌)高等普通学校時代には,文学,美術,音
      楽など全ての芸術分野で頭角を現した。

1940年 ピョンヤン(平壌)高等普通学校 第28回 卒業

      セブランス医大に落第した後,日本に渡り,3年ほど京都で
      文化放浪客として,独学で演劇と映画を勉強して過ごす。

      当時の日本には,学生のための外国映画専用空間があり,日
      本で上映されている多くの映画を見たそうだ。

1945年 解放後,キョンソン(京城)歯科医専(現:ソウル大医科大学)
      に入ったが,専攻科目よりは護国隊文化部長としてソウル大学
      統合演劇班(部)を創立するなど演劇運動に注力した。

      同級生の班(部)員のキム・ユボン(金有鳳)と出会い,結婚

1947年 ソウル大学演劇部を中心に構成された国立大学劇場で演出家
      として活動
      チェーホフの「道」を脚色した「暗路」,イプセンの「幽霊」
      チャベクの「人造人間」,シェークスピアの「ベニスの商人」
      などの演劇を演出し,すごい好評を受けたという。

1949年 セブランス医大と統合して創立された高麗芸術座でも活動

      ソウル大学校 医科大学 卒業

1950年 朝鮮戦争が起きると,プサン(釜山)で避難生活をした。

      先輩オ・ヨンジンの提案で<大韓ニュース>を作り始め,これを
      踏み台として駐韓米国公報院(USIS)から映画制作所首席シナリ
      オ作家兼演出家としてスカウトされ,<リバティーニュース>と
      文化映画を作り始めた。

      米国公報院のリバティープロダクションで<愛の病室>(制作年
      度未詳),<私はトラックだ>(1954),<水兵の日記>(1955)等
      の短編文化映画を作った。

      ソウル大学同窓生で,演劇を一緒にしたキム・ユボンと結婚
      医師であったキム・ユンボンは,精神的にも財政的にもキム・ギ
      ヨンの活動を支援した一生の後援者だった。

1955年 <屍の箱> 監督 [デビュー作]
       米国公報院(USIS)の制作
       民心を攪乱する目的で暗躍する共産主義者のアジトへ浸透して
       時限爆弾を設置して捕まった村の青年が命拾いして脱出した瞬
       間爆弾が炸裂して一党を抹殺させるという内容の反共映画
       (主演:チェ・ムリョン,カン・ヒョシル)

1955年 <陽山道(ヤンサンド)> 監督,脚本,編集
       ソラボル(徐羅伐)映画公社
       監督の作品世界の原型を示した作品

1956年 <鳳仙花> 監督,制作,編集
       キム・ギヨン プロダクション
       1人の女性を巡る三角関係の破局を描いた映画

1957年 <女性戦線> 監督,編集
       ウンソン映画社
       家政婦と主人の間に生まれた私生児の数奇な人生経歴を描いた映画

1957年 <黄昏列車> 監督,編集
       トングァン映画社
       アン・ソンギキム・ジミのデビュー作

1958年 <初雪> 監督,編集
       芸術映画社
       戦後,廃虚になったヨンサン(龍山)サムガクチ(三角地)のテン
       ト板村を舞台に,みじめな集団窃盗行為を描いた映画

1959年 <青春日記> 監督

1959年 <十代の反抗> 監督,企画
       ポマ映画社
       ナムデムン(南大門)周辺の浮浪者問題を扱った映画

       1960 第3回 釜日映画賞/最優秀作品賞,最優秀監督賞

1960年 韓国文芸映画社を設立

1960年 <悲しい牧歌> 監督,編集
       韓国映画配給
       ソウル駅のスリが都市の復旧作業と共に根元を失って希望のない毎日
       を送る姿を描いた映画

1960年 <下女> 監督,脚本,制作
       韓国文芸映画社
       年間最多観客を動員する。
       国際劇場:49日間で234,110人

1961年 <玄界灘は知っている> 監督,脚色,制作
       韓国文芸映画社
       ハン・ウンサ(韓雲史)のラジオドラマ原作を基に作った大河ドラマ

1963年 <高麗葬(姨捨)> 監督,脚本,制作,編集
       韓国文芸映画社
       老いれば子供にたよってしまうようになる社会因襲の暴力を描いた映画
       [You Tube] https://www.youtube.com/watch?v=FrP-_9SUyOQ

       1964 第7回 釜日映画賞/最優秀作品賞,最優秀監督賞

1964年 <アスファルト> 監督,脚本,編集
       韓国芸術映画社

1966年 <兵士は死して語る> 監督,脚本,企画,編集
       韓国芸術映画社

1968年 <女> [オムニバス映画] 監督,脚本
       韓国芸術映画社
       チョン・ジヌユ・ヒョンモクとのオムニバス制作

1969年 <美女 紅娘子> 監督
       セハンフィルム

1969年 <レンの哀歌> 監督,脚本
       世紀商社
       韓国の代表的な女流詩人モ・ユンスク(毛允淑)の同名の詩集を映画化

1971年 <火女> 監督,脚本
       ウジンフィルム
       1971 第8回 青龍映画賞/監督賞

1972年 <蟲女> 監督,脚本
       ハンニム物産
       夫の浮気によって破滅する家庭を描いた作品
       年間最多観客を動員する。
       国都劇場:42日間で155,352人

       1973 第9回 百想芸術大賞/監督賞

1974年 <破戒> 監督,脚本
       東亜輸出公司

1975年 <肉体の約束> 監督
       東亜輸出公司
       イ・マニ監督の<晩秋>(1966)をリメイクした映画

1976年 <血肉の愛> 監督
       サミョンフィルム

1977年 <異魚島> 監督
       東亜輸出公司

1978年 <土> 監督
       東亜輸出公司

1978年 <殺人蝶を追う女> 監督
       ウジンフィルム

1979年 新韓文芸映画社を設立

1979年 <水女> 監督,脚本,原作,制作
       新韓文芸映画社

1979年 <ヌミ> 監督,脚本,制作
       新韓文芸映画社
       聾唖者である女性の3人の男との恋心を描いた映画

1981年 <潘金蓮> 監督
       東亜輸出公司
       制作費問題で困難を経験し,本来の企画から相当な分量が削除された。

1982年 <火女’82> 監督,脚本
       新韓文芸映画社

1982年 <自由乙女> 監督
       新韓映画社

1984年 <馬鹿狩り> 監督,脚本
       ファチョン(貨泉)公司

1984年 <肉食動物> 監督,脚本
       新韓映画社

1990年 <天使よ悪女になれ(死んでもいい経験)> 監督,脚本,原作
       新韓映画社
       第41回 ベルリン国際映画祭 出品

1997年 第2回 プサン(釜山)国際映画祭でキム・ギヨン回顧展を開催

1998年 2月5日 明け方3時30分頃,自宅の電気ショートによる火災により
      夫人キム・ユボン(金有鳳)とともに死去

1998年 第18回 韓国映画評論家協会賞/特別功労賞


[解説資料] 韓国映画100年史 その誕生からグローバル展開まで(鄭j樺 [著] )131頁

[最終更新] 2015-01-14
 



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