輝国山人の韓国映画
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イム・ウォンシク
林元植
임원식
Im Won-Sik

1935年1月22日 黄海道のピョンサンで3男2女中3男として出生       父は,儒教的家風が強い天道教道人イム・スドン(林寿東)       ノチョン(漏川)小学校を終えた後,解放となり,父とともに38度線       を越えてソウルに定着       ソウルのフィムン(徽文)中学校を卒業       数か月後に朝鮮戦争が勃発し,学徒兵として参戦       戦争を避けて両親とともにチェジュ(済州)島に避難       チェジュ(済州)島のヒョン高等学校を卒業       ソラボル(徐羅伐)芸術大学 演劇映画科に入学        後日,撮影技師になったチャン・ソクチュン,チョン・ジョミョンが同期生        高校生時代に交際した済州道出身の女子高生と大学生の身分で結婚        大学時代は,校内演劇活動に積極的に参加し,ソウルのミョンドン(明洞)公会堂であげた        劇団<青協>の創立公演「痛哭」(1954)で主役を演じた。 1955年9月 創造実験劇会 代表 1956年4月 劇団信協 演出部       大学を卒業後,基督教放送の公開募集に合格して入社し,演出兼声優の仕事をした。       ソンミン映画社に入社し,         <不滅の星座>(1959年,ユ・ジンシク監督) の第3助監督         <大院君と閔妃>(1960年,ユ・ジンシク監督)の第1助監督         <恋愛戦線>(1960年,キム・スヨン監督)の第1助監督         <帰ってきた伝説男>(1960,キム・スヨン監督)の第1助監督 など,       演出部で仕事をした。       シン(申)フィルムの演出部に移籍       シン・サンオク(申相玉)監督の下で         <離れの客とお母さん>(1961年)         <烈女門>(1962年)         <江華島令>(1963年)などに       第1助監督で参加して演出授業を積んだ。 1965年 カラーシネマスコープ映画<日清戦争と女傑閔妃>で監督デビュー        ナ・ユンギュの息子であり友だちであったナ・ボンハン(羅鳳漢)と共同監督        ミョンボ劇場で封切りし,興行に成功        大鐘賞の4部門で受賞         女優主演賞(チェ・ウニ)         男優助演賞(パク・ノシク)         美術賞(ソン・ベッキュ,キム・ジョンハン)         録音賞(イ・ギョンスン)       以後,30余編の映画を演出した。        作品は,現代物より史劇,通俗時代劇が多い        静寂な作品が少ない代わりに,アクションが強い躍動的な画面を好む。        メロドラマが少ないことも,もう一つの特徴である。 1981年 テチャン興業の代表理事 1982年 <官属のドラキュラ>を制作 1990年 韓国基督教映画制作所 代表理事 1995年 基督教TV放送 専務理事 兼 放送本部長 1999年 韓国映画監督協会 第20代会長 2000年 社団法人 韓国映画監督協会 初代理事長 2001年 春史ナ・ウンギュ記念事業会 会長 2001年 文化観光部から宝冠勲章を授与される。 2003年 社団法人 チェジュ(済州)映像委員会 副委員長 兼 運営委員長       2男1女の子どものうち,息子であるイム・ジョンホ(林鍾浩)と       イム・ジョンジェ(林鐘宰)は,どちらも映画監督
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1989年
1992年
清日戦争と女傑閔妃
西遊記
私は売国奴
叔夫人
大暴君
密命
風浪客

風雲児
義賊洪吉童(ホン・ギルトン)
夕陽に離れる
魔人
深夜の対決
港8番街
猛獣
腕のない剣客
真裸になった太陽
閔妃とマゴム
春色恨女
大監新郎
怒りの三つの顔
雪夜の女哭聲
アリラン
男の巫女
自分の心私も分からない
母 [大鐘賞(15)/最優秀作品賞]
あの高いところへ向かって
通天怒号
疏林史水長寿
母の祈祷 私の祈祷
不幸な子供の幸福
[最終更新] 2014-06-11

 



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