輝国山人の韓国映画
<Home>へ
[出演映画][職 業] 俳優 [本 名] [生年月日] 1938年 生まれ 2017年 死去 [出 生 地] [身長体重] [住 所] [レ タ ー] [出身学校] ソラボル(徐羅伐)芸術大学 演劇映画科 [宗 教] [趣 味] [特 技] [家 族] 1958 キム・ジンギュと結婚、1男3女 娘は,俳優のキム・ジナ [血 液 型] [あ だ 名] [座右の銘] [経 歴] ・大学1年の時、第1回大学演劇祭で<裸像>に出演して演技を始めた。 ・以後<魔の太子>、<カモメ>、<塔>、<イグアナの夜>など、60編余りの 演劇に出演した。 ・<オクタンチュン(玉丹春)>(1956)に出演して映画俳優としてデビューしたし、 この映画で初めて会ったキム・ジンギュとその後結婚した。 ・キム・ジンギュの監督デビュー作である<種子の金>(1967)に出演した後、子供 の教育問題などを理由に演技活動を中断する。 ・キム・ジンギュが、<聖雄イ・スンシン>(1971)の制作と興行失敗で大きな借金 をすることになり、これによって離縁を迎える。(1997年に再び結婚) ・演技活動を休む間、詩集『悲しくない鶴になって』、『なくした曜日』を出版し、 収益金で生活困難者を助けることもした。 ・‘忘れれないで’という酒屋も経営して、<外出>(1983)で映画界に復帰した。 ・1984年に娘である映画俳優キム・ジナと一緒に出演した<どん底から救った 私の娘>(1984)を最後に引退した。 ・引退後、アメリカのロサンゼルスに移民をし、その後帰国して映画企画会社NS 21の会長として、チュンサ(春史)ナ・ウンギュ(羅雲奎)の一代記を描いた 映画<アリラン>の南北合作制作を推進することもした。 ・北朝鮮記事だけを専門的に扱う月刊雑誌《民族21》の共同発行人としても活動し た。 1999 ピョンヤン(平壌)統一音楽祭 団長 2003 民族21 共同発行人 2003 NS21 代表理事 会長 [H P] [所属会社] [T V] [WebDrama] [ラ ジ オ] [M-Video] [C F] [短編映画] [演 劇] [DISC] [叙 述] 1978 詩集<悲しくない鶴になって> 出版 1980 詩集<なくした日曜日> 出版 1999 自伝小説<死んでも忘れれないで> 出版 2009 <私の運命の星 キム・ジンギュ> [受 賞] 1984 大韓民国映画祭 演技賞 [お ま け] [最終更新] 2020-11-11
制作年 | 作 品 名 (監督名) |
---|---|
1956 1963 1964 1967 1971 1983 1984 |
オクタンチュン(玉丹春) (クォン・ヨンスン=權寧純) 高麗葬 (キム・ギヨン=金綺泳) 夫婦戦争 (チョン・チャンファ=鄭昌和) 種子の金 (キム・ジンギュ=金振奎) チプセギを履いてきたよ (パク・サンホ=朴商昊) 外出 (ホン・パ=洪坡) 泥沼から救い出したわが娘 (イ・ミレ=李美礼) |
高麗葬(1963) |
---|