輝国山人の韓国映画
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森浦(サンポ)への道

偶然出逢った三人の”事情持ち”の男女が,厳冬の雪原を旅するロードムービー。現代人の孤独な魂を描く名匠・イ・マニ(李晩煕)の遺作となった作品

工事現場をさまよう若い労働者ノ・ヨンダル(ペク・イルソプ)は,刑務所生活を終え、工事現場を転転しながら故郷に向かう中年のチョン氏(キム・ジンギュ)に会う。チョン氏は,10年余ぶりにサンポ(森浦)という故郷を訪れようとしていた。

旅の途中,彼らは,町の居酒屋から逃げてきた酌婦ペッカ(ムン・スク)に会い,三人で旅行を始める。

ペッカは,カンチョン駅でヨンダルにソウル行きの切符を買ってもらい,二人と別れるが,結局,ソウル行きの列車に乗らず,居酒屋の仕事に戻ることを考える。

ペッカと別れたヨンダルとチョン氏は一緒にサンポを目指すが,サンポに向かうバスの中で新しい港湾労働の仕事を得たヨンダルは,チョン氏と別れる。

チョン氏は,ついに故郷サンポに到着する。しかし,故郷の島には大きな橋が架けられて陸続きとなり,観光ホテルが2つもできるなど,すっかり変わってしまっていた。

[製 作 年] 1975年
[韓国封切] 1975年5月23日
[観覧人員] 13,400人(ソウル封切館基準)
[原    題] 森浦(サンポ)へ行く道 삼포가는 길
[英 語 題] The Way To Sampo
[原    作] ファン・ソギョン(黄ル暎)
[脚  本] ユ・ドンフン
[監    督] イ・マニ(遺作)
[助 監 督] ソ・ユシン
[撮    影] キム・ドクチン
[照  明] ソン・ヨンチョル
[美    術] チョ・ギョンファン
[音    楽] チェ・チャングォン

[出    演] ペク・イルソプ  → ノ・ヨンダル(盧永達)
         キム・ジンギュ  → チョン(鄭)
         ムン・スク    → ペッカ(白花) [本名:イ・ジョムスン] 
         キム・ギボム   → 
         キム・ヨンハク  → 
         ソク・インス   → 
         ソク・ミョンスン → 
         チャン・イナン  → 
         チェ・ジェホ   → 




[受    賞] 1975 第14回 大鐘賞映画祭/優秀作品賞/監督賞/撮影賞/音楽賞/編集賞
               /新人賞(ムン・スク)/男優助演賞(キム・ジンギュ)
      文学思想 最優秀創作推薦作品
[映 画 祭] 1975 第25回 ベルリン映画祭 出品
[時    間] 98分
[等    級] 15歳以上 観覧可  
[制作会社] ヨンパン(連邦)映画株式会社 
[制 作 者] チュ・ドンジン
[ビ デ オ]  あり(VHS)
[レンタル] あり(VHS)
[You Tube] https://www.youtube.com/watch?v=Drz_bK4GkTE
[Private ] Jd-8Video
      K-DVD(ALL) 韓国映像資料院 コレクション 【76】

[お ま け] ・福岡市総合図書館 所蔵作品

      ・文学思想 最優秀創作推薦作品


    ◎ 韓国映像資料院 コレクション <森浦(サンポ)への道>(DVD)
        添付 ブックレットから 翻訳


      イ・マニと三浦(サンポ)へ行く道
 
              キム・ビョンチョル(トンウィ(東義)大学校 映画学科教授)


      ・イ・マニ監督について考える時、一番最初に浮び上がるのは'天才は短命だ’
       という言葉だ。

      ・韓国映画史を振り返ってみれば、短命な天才のイメージを持つ監督が何人か
       いるが、そのうちの最も代表的な人物が、イ・マニ監督とハ・ギルジョン監
       督だ。

      ・ハ・ギルジョン監督が、時代を誤って選んだ不遇な天才のイメージならば、
       イ・マニ監督は、途方もない情熱と才能の花を咲かせた絶頂の瞬間に亡くな
       った天才のイメージを持っている。

      ・事実、イ・マニ監督は、1961年度にデビューして、1975年に45歳の年齢で死
       亡する時まで、15年間で50本という多くの作品を演出したので、作品の本数
       だけを見るならば、夭折という言葉は似合わないという気がするといえる。

      ・だが、まだ活発な作品活動をすることができる年齢に、それも、作品世界が
       引き続き拡張され、より一層円熟している時点で亡くなったという事実が、
       '夭折した天才’という言葉を使うほかはなくなる。

      ・イ・マニ監督の作品世界は、一言で簡単に定義し難い。

      ・彼が残した多くの作品は、多様なジャンルをあまねく渉猟していて、映画の
       スタイルもやはり一つの形態で固定されることはなかった。

      ・彼が扱ったジャンルは、<帰らざる海兵>、のような戦争
       映画、<帰路>、<休日>のようなメロドラマ、<森浦へ行く道>、<黒い麦>のよ
       うな文芸映画、<魔の階段>、<六つの影>のようなスリラー、<黒髪>、<鎖を
       切れ>のようなアクション映画などで見られるように多様だ。

      ・映画<晩秋>など色々な作品で彼とともに作業したシナリオ作家ペク・キョル
       は、イ・マニ監督の特徴として、定形化されずに絶えず実験を継続したとい
       う点と、ストーリーよりはキャラクターを重視したという点を上げた。

      ・言い換えれば、イ・マニ監督は、特定のスタイルや主題意識を深く掘り下げ
       るよりは、絶え間のない実験を通じて、自らの姿を多様に変化させていった
       と見られる。

      ・類似の世界観とスタイルの反復を重視する古典的作家主義の視点で見ようと
       するならば、イ・マニ監督を作家と呼ぶのに躊躇することになるだろうが、
       卓越した演出力や、彼が残した作品が韓国映画史で占める地位を考えてみる
       ならば、躊躇なく彼を韓国映画史で最も優れた作家のうちの1人としてで選
       べるはずだ。

      ・イ・マニ監督の遺作である<森浦へ行く道>は、1973年に発表されたファン・
       ソギョンの同名小説を映画化した作品だ。

      ・この作品は、仮想の空間である三浦(サンポ)という故郷を訪ねていくチョ
       ンを中心に、流れ者の働き手であるノ・ヨンダルと田舎酒場から逃げたペッ
       カという酌婦の旅程を淡々とたどって行って、1970年代の大韓民国が成し遂
       げた高度成長の裏面で、根元を失ってさ迷う群像の姿を抒情的に描写する。

      ・<森浦へ行く道>が、三人の流れ者の旅程を描いているロードムービーである
       だけに、映画の大部分は、彼らが歩いていくところを背景にしている。

      ・彼らは、雪が降る山道や平和な農村の道をずっと歩いていくが、この時見え
       る風景は、単純に視覚的な美しさを見せるための背景に終わるのではなく、
       雪のような天気と結びついて、映画全体の情緒を伝達する心理的な空間とし
       てで機能する。

      ・映画は、雪に覆われた小川のほとりに居酒屋から追い出されたノ・ヨンダル
       が現れて始まる。

      ・一歩遅れてチョンが現れ、行き来する所のない流れ者の境遇を嘆くノ・ヨン
       ダルと二、三のやり取りをした後、二人は、同行して旅立つ。

      ・彼らの初めての出会いが成り立つ空間は、当てもなく足を移さなければなら
       ない二人の心理状態を反映したように荒涼だ。

      ・雪がうず高く積もった大地は、美しいというよりはもの寂しくて、風景の真
       中を横切る雪解けの小川は、黒く見えて、このような心理をより一層加重さ
       せる。

      ・ただ同行に過ぎなかったこの二人の関係は、酒場から逃げた酌婦ペッカに会
       って、一種の擬似家族あるいは完全な共同体に変貌する。

      ・お父さん格である年長者チョン、娘格であるペッカ、そして婿のような若い
       ノ・ヨンダルは、微妙な愛情関係を形成して、家族の形態を成し遂げる(以
       後、チョンが酒場で苦境に立たされたペッカを救うために、お父さんの振舞
       をするとき、彼らの類似家族関係は、頂点に達する。)。

      ・チョン一行とペッカの出会いは、吹き付ける吹雪が終わって、ジーンと太陽
       が照りつける中、巨大な橋の下で成り立つ。

      ・吹雪が終わった後のきれいな空は、彼らの短い同行が、たとえはかないこと
       であっても、あふれる日差しくらい暖かいことを暗示でもするようだ。

      ・だが、実際の彼らの歩みは、そんなに容易なことだけではない。

      ・この三名の流れ者は、お互いの手を握って引っ張って、一寸の前も見えない
       吹雪道を一緒に進む。

      ・ノ・ヨンダルとペッカが倒れて、チョンがこの二人を自分の体でかばう時、
       荒涼な吹雪が吹き荒れる風景は、彼らの運命の前に置かれた険しい世界の荒
       波になり、彼らの行動は、彼に対抗する至難な身振りになる。

      ・吹雪が終わった後、彼らが訪ねた古い廃家は、焚き火と彼らの体温で暖めら
       れて、外側の荒涼さと対比される温みに充ちた空間、仮想の故郷すなわち三
       浦(サンポ)のもう一つの姿だ。

      ・したがって、この古い廃家で各自の過去の歴史を話してお互いに対する感情
       を積み上げていくことは、極めて当然であるように見える。

      ・このように、一時だけでもお互いの希望と慰めになった彼らは、小さい田舎
       の駅舎でその最後を迎えることになる。

      ・今にも雪があふれるような空、低い天井のみすぼらしい駅舎で一時の温みを
       分かち合った彼らは別れる。

      ・彼らが会ったところも道の上であり、彼らが別れる所も路上だ。

      ・変わったところがあるならば、天気と道の種類だけ(より近代化された道で
       ある鉄道駅)

      ・ヨンダルとチョンが離れた後、一人ぼっちで残ったペッカが駅舎の外の酒場
       を眺める時、彼女の姿を照らすような割れた窓ガラスは、ペッカのむなしい
       情緒をすさまじい美しさで視角化させる。

      ・映画の最後のチョンは、あまりにも変わってしまって、もう見分けることさ
       えできない三浦(サンポ)に直面する。

      ・のどかに晴れた日、バスに乗って満開の桜の花が咲いた道に沿って行ったチ
       ョンは、島と陸地を連結する巨大な橋に出会う。

      ・映画全編のフィーリングとはあまりにも明確に違いが生じている、それでそ
       れぐらい拒否感をかもし出している現代的な橋のイメージは、彼らが抱いて
       いた過去の記憶との関係がすでに終わったことを知らせる。

      ・このように、この作品は、登場人物の情緒を投影する叙情的な空間を積極的
       に活用する。

      ・また、映画<森浦へ行く道>は、独創的なサウンドの活用方式を見せる。

      ・同時代の韓国映画と同じように、慣行上、後時録音で進行されたこの作品は、
       これによる慢性的な弱点を抱いている。

      ・だが、イ・マニは、何種類かの実験的な方式を活用することによって、この
       ような弱点をかえって卓越することで転換させる。

      ・このような特徴は、三名の流れ者が一食の食事を解決するために喪家を訪ね
       て行く場面でよく現れる。

      ・喪家の中で姿が見える時、僧侶の読経音だけが聞こえて、他の音は、何も聞
       こえない(十分な背景音を確保することができなかった後時録音の限界)。

      ・暫くして、酒杯を傾けたペッカが、箸をたたいて歌を始めれば、まもなく他
       のすべての音は消えて、喜劇的な音楽だけが映画の中に鳴り響く。

      ・ペッカのニナノ拍子(箸(はし)をもって食卓をたたきながら取る拍子)を
       契機に一度大騒動が広がるが、サウンドの活用方式により実際の争いが持つ
       現実性は除去されて、逆説的にこれらが作り出す瞬間の愉快さが伝えられる。

      ・このようなサウンド活用は、映画の後半部の市場で、ペッカが独り残される
       瞬間にも登場する。

      ・ヨンダルと新婚夫婦のようにあれこれ見物をしたペッカは、急に二人の男が
       消えたことを悟る。

      ・その瞬間、すべての音は消えて、完璧な寂しさだけが漂う。

      ・現実を受け入れて諦めるようになったペッカが、むなしい表情で道を歩き始
       めると、完璧な寂しさの上に映画の主題音楽が再びもの悲しく広がり始めて
       ペッカの静かな心情を雄弁に語る。

      ・イ・マニ監督は、このようにサウンドとイメージの直接的な対立を活用する
       ところで終わらず、一歩進んで登場人物の陳述(サウンド)とイメージの対
       立を積極的に活用したりもする。

      ・ヨンダルが自身の過去を話す場面でのせりふでは、彼の上手く行った過去が
       聞こえるが、画面に実際に見えるのは、猫いらず商売をしながら妻を先に送
       った下品な彼の過去生活だ。

      ・イ・マニ監督の遺作<森浦へ行く道>は、このように自分だけの多様な感覚と
       実験を動員することによって、視覚的なイメージとサウンドの活用がどのよ
       うにして文学作品を卓越するように再創造できるかを見せてくれた。

      ・この作品は、道の上で出会った流れ者たちが、類似家族的な共同体を作って
       解体される過程を抒情的に描き出すことによって、近代化の裏面に存在する
       忘れ去られていくものなどに対する弱々しい哀悼を送る。

      ・この作品を見れば、すべてが雪で覆いかぶされた険しい道を堂々と歩いてい
       く三人の流れ者の後ろ姿が目にありありと浮かぶ。

      ・そして、この後ろ姿は、多様なジャンルをあまねく渉猟して韓国映画の深さ
       と幅を広げたイ・マニ監督の最後の後ろ姿を見るような錯覚を呼び起こす。


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