輝国山人の韓国映画
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1911年 6月3日 慶尚北道サンジュ(尚州)で、中農であるハムリョンキム氏の 3男1女中次男に生まれた。 1921年生まれの弟キム・ハニルも映画監督 1927年 ハムチャン(咸昌)普通学校6年 卒業 上京し、第一高等普通学校(現:キョンギ(京畿)中学校) 入学 1930年 上級クラスの時には、朝鮮劇場で無声映画時代の傑作<東道> (1920)、ナ・ウンギュの <アリラン> (1926)、<愛を探して> (1928) を見て映画に関心を持つことになった。 第一高等普通学校卒業後、日本に留学し、日本大学予科に籍を置く。 日本大学仏文科に通ってフランスのトーキー時代を開いたルネ・クレールの<パリの 屋根の下> (1930) をはじめとする映画を通じて音楽が占める比重の大きさを知るよう になった。 上野にある中央音楽学教作曲科に入学 家が望む法律家より芸術方面に愛着を持って大学在学中に映画クラブ作る仕事を主導 1933年 日本大学法文学部法律学科に入学し、英国法を専攻 1936年 日本大学法文学部法律学科を卒業 弁護士になるために2年の間準備した高等文官試験を受けたが落第 <国境の街>>で有名な日本の作曲家細川潤一との親交を契機に、撮影所助監督だった 友だちイ・ビョンイルを引き込んでコリアレコード社を設立 ソウルでパク・キチェ監督が撮影中の<春風>の作詞作曲の要請を受けてレコードを 制作して送る。 作曲者としてキム・モグン(金牧雲)という芸名を使う。 1939年 帰国し、ソウルで運送会社、機械工具商、土木業に従事 母校であるキョンギ(京畿)中学校で教鞭を取る。 韓国映画科学研究所をソウルのウルチロ(乙支路)2街に創設 視聴覚教育のため、韓国最初の小型文化映画の制作に注力、文教部を通じてその普及に 力を傾けた。 1947年 牡丹燈記 監督、脚本 [デビュー作] 恨(ハン)を残して死んだ娘おばけが成仏するために一人の男と同衾するという怪奇物 韓国最初の16mm発声映画で中国のク・ジョンギルの小説『牧丹登記』を脚色して映画化 制作は、韓国映画科学研究所 1954年 映画監督協会 会長 1956年 王子好童と楽浪姫 監督 良く知られた口伝説話である高句麗の王子好童と楽浪姫チャミョンゴの話を扱っている。 衣装の派手さを前に出すコスチュームプレイ(costume play)に注力した史劇 歴史映画の新しい進歩を提示した作品と評価された。 主演:キム・ジンギュ、オム・エンナン 1957年 アリラン 監督 ナ・ウンギュの<アリラン>をリメイク <阿里郎(アリラン>(封切り名) は、香港に輸出されて韓国映画輸出第1号として記録される。 文教部選定 優秀国産映画賞 作品賞 主演:チャン・ドンフィ 1957年 シナリオ作家協会 会長 1959年 お金 監督 友だちの誘惑に陥って投銭部屋でお金を失うことになった農民守銭奴がこれを契機に人生観が 変わる姿など、近代化と産業化が始まる農村社会の現実を非情に描いた。 リアリズムを追求したこの作品は、韓国の農村を暗く表現したという理由で好評と批判が交錯 したがキム・スンホの重厚な演技とともに秀作と評価された。 第2回 韓国映画評論家協会賞 監督賞 1959年 ああ,我が故郷 監督 自由党末期の社会不条理とどん底に落ちた民衆の声を表わすという大層な意図を持って制作さ れたが、興行に失敗した。 娼婦に転落した田舎娘が恋人と共に腐敗した都市を離れて故郷へ降りて行くというあらすじで 日本映画<カルメン故郷に帰る> (木下恵介 脚本) と似ているという話を聞くこともした。 この作品を最後に監督生活から引退 1960年 ハニャン(漢陽)大学校 映画学科創設(韓国最初)および 初代映画学科 科長 1972年 ハニャン(漢陽)大学校 文学博士取得(韓国最初)"言語のリズムが映像に及ぼす影響" 1972年 映画学会 初代会長 1981年 第26回 大韓民国芸術院賞 演劇・映画・舞踊部門 ハニャン(漢陽)大学校 映画学科 名誉教授 1988年 11月9日 死去 70歳 [監督作品]
| 制作年 | 作 品 名 【原 題 名】 |
|---|---|
| 1947 1956 1957 1958 1959 |
牡丹燈記 王子好童と楽浪姫 アリラン お金 ![]() ああ,我が故郷 |