タイトルロールに花束を

顔を見せておくれ

映画のエンドクレジットが今のように延々と続くようになったのはいつ頃からだろうか?あんまり勤勉な観客とは言えない僕には今ひとつはっきりしないが,たっぷり3曲は聞かされるというのは余韻を楽しむにしてもちょっと長すぎる。

きっと契約その他のいろんな事情があるのだろう。それはそれで理解できないこともないのだが,ここが長くなったおかげで明らかに犠牲になっているものがある。少なくとも僕はそう思っている。それがタイトルロールのバラエティである。ここでいうタイトルロールとは映画冒頭,もしくは冒頭付近でテーマ曲とともにタイトルやメインスタッフ&キャストのクレジットが流れる部分のことだ。

かつてはこの部分こそが「顔」であり,エンドマークのあとには簡単なクレジットが出てさっとおしまいになるものが多かった。今はご承知のとおり逆である。冒頭のドラマにかぶせて一部のスタッフやキャストだけ何の工夫もないクレジットが出るというパターンが多い。

これが僕には物足りない。

もちろん作品のカラーに合わせて考えられているのだろうが,それでもここで仕掛けや工夫のない映画はちょっと物足りない。本編の出来とは関係ないとわかっていてもだ。

昔は良かった風の言い方は嫌いだが,おしゃれで遊び心があり,アイデアで魅せ,パッケージとしての映画世界をきれいに包装している……そんなタイトルロールに心当たりがあるという人はたくさんいるはずだ。お遊びとはほど遠い深刻な物語にもこの部分で印象的な作品はいろいろある。凝ったものを作っても損はないと思うのだ。

個性とセンスがうれしいのだ

いささかおおざっぱな感想だが,きれいにまとまった商品という感じの映画にはこのタイトルロールに凝ったものが多いような気がする。例外はたくさんあるだろうが,タイトルロールがバラエティに富んだラッピングの役割を果たしているような印象がある。

たとえば,ヘプバーンの「シャレード」はシンプルなアニメーションの渦巻きや迷路にクレジットがちりばめられていてここにヘンリー・マンシーニの有名なテーマ曲がかぶさる。もうこれだけで「シャレード」以外の何ものでもない世界ができあがっている。

同じヘプバーンがフレッド・アステアと共演した「パリの恋人」ではカメラマンとモデルの話ということでファッション誌のレイアウトをモチーフにしたようなしゃれたタイトルロールになっている。この工夫というか凝り方,あるいは大切なタイトル部分なのだからセンス良く装飾しようというこだわりがうれしい。

マドンナの「フーズ・ザット・ガール」なんかファンの方には申し訳ないが僕にとってはあのアニメのタイトルロールだけで満足である。あれはコレクションの値打ち十分の出来映えだった。

また,単にクレジットを流すだけにしても「スーパーマン」のように流してくれるとそれだけで気合いが伝わってくる。あのテクニックは当時ずいぶんあちこちでマネされたものだ。極太明朝体でどどーんとクレジットが出る市川崑監督の作品だって「おお〜やっぱ金田一耕助はこうでなくては」と思うしね。

007の心意気を見よ

このタイトルロールで僕があっぱれだと思うのは007シリーズである。何の必然性もなく女体がくねくねと踊るあれだ。

東西冷戦終結後の世界ではジェームズ・ボンド氏のような古典的なスパイの活躍は古き良き時代のロマンでしかない。現にボンド自身が劇中でさんざんそんなことを言われているくらいだ。彼だってもう廃業してのんびり薔薇作りにでも専念したいところだろう。あの女体がくねっているタイトルロールは男にとっての古き良き時代の証なのだ。

しかしそれをこの時代になってもまだ守り続けているというところになんだか妙なこだわりを感じて面白いのである。しかも毎回映像技術は進歩しているから今ではCGバリバリで大変に美しい。実に見応えがある。それでいて意味もなく裸の女のシルエットにこだわるところがおかしい。

志なんか全然感じなくとも俗な娯楽をデラックスに楽しませてあげますよん,というこの態度が潔いではないか。僕はシリーズを全部見ているわけではないので全作このパターンなのかどうか知らないが,できることならシリーズのタイトルロールを集めたDVDでも出してほしいくらいである。

むろんこれはスケベな中年(つまり僕)の感想なんだが。

節度もよし,やる気もよし

ロジェ・ヴァディム監督の「バーバレラ」は実に面白くておまけにエッチな映画だが,このタイトルロール部分というのがあの有名なジェーン・フォンダの無重力ストリップのシーンである。

若き日のジェーンの裸がたいそう美しいのだが,このシーンではクレジットの文字は画面中をふわふわ漂っている。その様子はまるで彼女と戯れているような感じなんだが,それでいて大事な部分は見せすぎないように文字たちがささっと集まってきて隠してくれるのである。

サービスカットのヌードといえども露骨になりすぎないこの節度がよいね。しかも笑わせてくれる。まあこのシーンでいちいちクレジットを読んでる朴念仁もとい反骨の士は少ないと思うが。

ヒッチコック監督の「北北西に進路を取れ」はクライマックスのラシュモア山のくだりが凄い画になっているが,タイトルロールも実に凝っていて印象的だった。クレジットの文字が高層ビルの窓をイメージした直線に沿って次々に現れ,やがてそれが本物のビルの映像になるというものだ。その凝り方はこうして文章にしても全然伝わらない気がするのでぜひ本物に当たっていただきたい。

クレジットのひとつさえ工夫して見せようというこうしたやる気,こだわりは映画の顔としてずいぶん力になっていると思う。僕のあまり豊かとは言えない映画体験でさえこんな風にいろいろと思い出せるのだ。それだけ印象的なタイトルロール,つまりはそれにまつわる記憶が多々あったということである。

だからドラマの本筋とは関係ないだろと言わずにこだわってほしいと思う。贈り物を受け取る側(観客)にとっては装飾のバラエティもうれしいものなのだ。