夢であいましょう

50年代MGMミュージカルの傑作「巴里のアメリカ人」はそのラストを飾る長大で幻想的なダンスシーンがあまりにも際だっているが,この破格のクライマックスは見れば見るほど面白い象徴と暗喩に満ちている。ファンのお遊びとして深読みする楽しさに満ちた17分間と言えるだろう。

よく知られているように,この部分はルノアールやロートレックなどの名画の中の世界で主役のジーン・ケリーやレスリー・キャロンらが踊る,という作りになっている。ヘンなたとえだが,欽ちゃんの仮装大賞を数千,数万倍にグレードアップしたようなものだ。僕は絵画にうといので再現された名画の世界にもなじみのあるもの,そうでないもの(要するに知らないってこと)が入り交じっている。制作者たちの意図したとおりにすべてを楽しむには素養不足かもしれないが,このシーンにはまだ様々な解釈の楽しみが隠されている。

僕がもっとも象徴的なものとして感じたのは,この部分が見事なまでに夢の構造を表現しているという点だ。

制作者たちにその意図があったかどうかはともかく,このシーンは不条理さやでたらめさ,それでいて妙に心に食い入ってくるイメージの断片,といった人の見る夢の,言葉にしづらい性質をよく表していると思うのだ。

映画本編を見ればおわかりのとおり,このシーンはジーン・ケリーが見る一瞬の幻想ということになっている。いってみれば扱いそのものが夢と等価といった演出なのだ。そのつもりがあったにせよなかったにせよ,期せずして夢の構造をよく暗示したシーンができあがったのは面白い。

具体的にどんなところにその意図,あるいは偶然を感じるか。

まずこのシーンは愛する女性と別れた直後のジーン・ケリー扮する主人公が体験する幻想である,という前提がある。夢であるからその景色は現実とは別種のリアリティや法則を持っている。見える部分も見えない部分も絵画の中の世界であって風景は独特の色彩や影に彩られている。

さらに,次から次へと自分を取り巻く風景は脈絡もなく変化し,そのたびに自分は今まで何をしていたかまったく忘れて新たな登場人物として突然新たな景色の中にいる。景色が切り替わった瞬間に世界も自分も切り替わってしまう。

そしてどの世界に移っても大切な人(ここでは愛する異性)はそのたびに違う姿でときには近くにときには遠くに現れ,現実以上に親密に,あるいはもどかしいほどよそよそしく,彼(そしてあなた)の手をとるのである。

主人公はこの幻想の中で様々なシチュエーションで踊るのだが,そのひとつひとつが脈絡なく切り替わる夢の世界そのものであり,どの世界にも彼の愛する女性(レスリー・キャロン)が様々な姿で登場する。どの彼女も別れたばかりの現実の彼女と似ていながら少しずつ違っている。似てはいるが,現実世界の彼女そのままの個性で彼に接する正真の彼女は現れない。

そのもどかしさが夢の特質そのもののように思えるのだ。

このシーン,モダンとノスタルジイが微妙にミックスされたようなガーシュウィンの名曲「パリのアメリカ人」と幻想的なダンスシーンの相乗効果で異様なまでに印象に残ってしまうのだが,その秘密はこのへんにあったのではないかと思っている。

故意か偶然かはともかく,この部分が恋する人間の夢の構造を非常に色濃く再現しているらしいことに気がついたとき,僕は映画の神さまのちょっとしたウインクを感じたような気がしてへええと思ったのだった。