パンフレットの郷愁

捨てがたい習慣

最近は映画に限らず昔の人気TVドラマがLDボックスでリリースされる機会も多く,僕などもけっこう買い込んだりしているのだが,これは昔から欲しかったから買っているのであって,特にノスタルジアに惹かれているわけではない。基本的に,想い出にひたるなんて脆弱だと強がるタイプである。

それでも素直に昔のことを思い出してやるせない気分になることもある。なぜか映画のパンフレットをながめているときだけはそんな甘さが許せる気分なのだ。

最近引越しをしたせいで荷物の整理もかなりやったのだが,いつの間にやらずいぶんたまった映画のパンフレットには独特の吸引力があってついあれやこれや考え込んでしまう。全然整理にならない。

映画を見たら(というより劇場に入ったら)パンフを買うのが僕の作法というか習慣で,たまに品切れだったりして買いそびれるともの足りなくて仕方がない。後で書店のパンフ即売会や通販などで手に入れてやっと「気が済んだ〜」となる。

ちっ,バカな奴と言われそうだが,どうもこの印刷物としては割高な代物が僕にとってはなかなかに捨てがたい。

そこに何かがある

同じ映画を扱い,より多量の情報に満ちた他の出版物(書籍や雑誌,写真集など)では不思議とそのような感慨にふけることは少ない。パンフレットだけが持つ空気のようなものだろうかとも思う。雑誌などに比べるとひとつの極小世界としてよりきっちりと閉じている感じがするからだ。当時の雰囲気,気配をより濃厚に閉じこめているのは確かで,故に寄稿文などはしっかりと古びる。そこがまたよい。

たとえば2001年宇宙の旅のパンフなどを見ていると,解説者が一所懸命この映画を解釈しようと頭を悩ませている感じが伝わってきて微笑ましい感じすら覚える。今では非常にわかりやすい映画なのだが,観客がそう思えるまでに30年かかったということでもある。

おかしいのは解説者の"映画評論家"としての中華思想がモロに出ていることで,キューブリック監督を持ち上げ,クラークを軽視する記述がはからずも執筆者の限界を暴露している。どちらも偉大なんだがなあ。

それにしても,床に広げたたくさんのパンフを見ていると「いろいろ見てきた割にはしょーもないもんが多いなー」と苦笑する気分。いわゆるB級作品ばかり。僕はやたらB級映画ばかりを持ち上げる自称映画通とは違うつもりだが,乱読ならぬ乱観?の時期の遺産がこの目の前に広げられたラインナップになっているようだ。

ミア・ファローのハリケーンなんて,内容はきれいさっぱり何も覚えてないがパンフだけはしっかり買っている。どうやら本編+パンフ=映画を観ること,というスタイルは相当前から強固に根付いていたようだ。

よみがえる真相……というほどでもないが

そういえば,この全然印象に残ってないハリケーンだが,実はこの映画に行った真の理由が別にあったことを思い出した。

併映がオリビア・ニュートン・ジョンの「トゥモロー」という映画。彼女のたぶん映画デビュー作だと思うが,このころ,つまりハリケーンの併映で公開当時,オリビアの人気は日本でも非常に高かったので,主役でもないのにオリビア・ニュートン・ジョンのという売り方をされたわけだ。僕もそれにつられて観に行ったのだろう,たぶん。

映画自体は上映時間も短く,内容もUFOなんかが出てくるSF仕立てのお気楽なミュージカルだったが,とにかくここでのオリビアは映画を見た当時の彼女よりさらに若く,それはもうか,可愛い〜と目尻が下がってしまうほど。そのピチピチした(死語)女子学生ぶりが魅力的だった。

今思い出してもこの映画での彼女の可愛らしさ,チャーミングなキャラクターというのは特筆すべきもので,それはパンフの数葉のスチルからも十分に伝わってくる。LD出ないかな〜と思い続けて幾星霜である。

大スターになってからのグリースとかその他の映画では決してお目にかかれない初々しい笑顔と愛くるしさは,若い白人女性の魅力としてはほとんど理想的と言ってもいい域にあった。むろん男の目で見て,ということなんだろうが。

まあ,そんなわけでパンフの山を見ているととりとめもないことがいくらでも浮かんでくるが,こうしてだらだらと書いていても散漫なだけだ。いずれあらためて取り上げることにしてひとまず今日はこのへんで。