気になる予告編

疑問は何気なくやってくる

誰もが知ってる(と思う)ディズニーアニメの「ノートルダムの鐘」はなかなか豪華な作品でLDも単品,ボックスと2つ出ている。もちろんこのページを訪れる人にはボックスものの方を買ってもらいたい。ディズニー作品のボックスもの,スペシャル・コレクションはサプルメント映像満載でコレクションの楽しさを堪能させてくれる。

さてこの作品,原題は"The Bells of Notre Dame"である。しかしこのスペシャル・コレクションに収められた予告編では違う。2本収録された劇場用予告編も他のいくつかのサプルメント映像でもタイトルは

The Hunchback of Notre Dame

となっている。Hunchbackとは辞書を引くまでもなく想像がつくかもしれないが,せむしの意である。この物語が有名な「ノートルダムのせむし男」のアニメ化である以上このタイトルにはなんの不思議もないはずだが,それでも「せむし男」ではなく「鐘」になってしまったわけだ。

気になりだしたらとまらない

たいしたことじゃないのかもしれない。よくあることなのかもしれない。しかし,非常にクオリティの高い作品で気に入ってるだけに,今回予告編を見てなにがなし気になってしまったのである。

そりゃあ"鐘"の方が一般観客にはイメージとして手触りがいいだろうとは思う。ディズニーだって自社のイメージと天秤にかけてせむし男より鐘を選んだのかもしれない。僕は知らないが業界通の人たちはとっくにご存じのいろんな事情があるのだろう。

けれどこの映画,過酷な運命に翻弄される異形の主人公の魂の解放を描いた作品ではないのか?醜い容貌であるがゆえの孤独と悲哀,悪の権化のごとき男に自由を奪われてきたカジモドが自らを閉じこめた心の牢獄から逃れ,明るい世界に受け入れられるその感動を描いた作品ではなかったか?

そういう志があったればこそあえてあのハッピーエンドを用意したのであろう?

それが「やっぱせむし男より鐘の方がイメージがいいよな」などと考えて改題したとすれば,製作側自ら,カジモドを醜い生き物として拒絶した連中と同じであったと証明しているようなものだ。うわべだけ美しくふるまっても内心の偏見は隠しようもないということか。

邪推の泥沼にはまる

むろん,何か表現上の規制コードみたいなものがあってやむを得ず鐘に改題したということも考えられる。業界の事情は知らないが,せむし男という言葉がテレビのような規制用語の対象になるのだろうか?

一番イヤな想像は,これが日本公開のための処置であったのではないかということ。本国も含めた海外公開ではすべて"The Hunchback of Notre Dame"もしくはその現地語訳を使いながら,日本でだけ配給側の偏見により口当たりのいい"The Bells of Notre Dame"を使ったのだとしたら悲しすぎる。

妄想であってほしい。くだらない邪推であると否定してほしい。この国でならあり得ない話じゃない。そう感じてしまうことがまた悲しいのである。

ああ,せっかくいい映画なのにつまんないケチをつけてしまった。いずれあらためて賛辞を捧げようと思う。ディズニーとは思えないエスメラルダの色気も,カジモドのほろ苦い失恋も,そして美しい映像もたいそう印象的で気に入っているのだ。