映画ファンと称する人たちと話していて一番がっかりするのは,相手がミュージカル映画食わず嫌いだと判明した瞬間だ。彼らいわく,なぜ急に歌い出したりするのだ,不自然ではないか,とくるのである。ああ,なんてこと!
ここでいうミュージカル映画とはウエストサイド物語やサウンド・オブ・ミュージックといった近代以後の作品ではなく,フレッド・アステアやジーン・ケリーといった伝説的スターが輝いていた時代の作品群のこと。すなわちMGMミュージカルに代表されるザッツ・エンタテインメントなジャンルの名作群である。
僕などに言わせるとこれは「夏はなぜ暑いのだ」とグチっているような理不尽な言いぐさなのだが,そういう人たちは夏には夏の遊び方があることを忘れているのだ。
春や秋の心地よさやウインタースポーツの楽しさを夏休みに求めても空しいだけではないか。夏には心身共にエネルギッシュで開放的な時間の楽しみ方がある。強引なたとえだが映画だって同じだ。「インデペンデンス・デイ」とヴィスコンティ作品に共通するのはフィルムという媒体を使っているという点だけだ。そういう割り切り方こそが楽しむための能力でもあると思う。
そこで「雨に唄えば」である。この不朽の名作も食わず嫌いの人たちにとってはやたら古めかしいダンスシーンの連続でつまらな〜い,という感想になるらしい。ああ,なんてもったいない。
「けしからん,この映画はこんな風に感じろ!」なんてこと言い出すつもりは毛頭ないが,これほど面白い作品でさえ酷評する人がいるというのは悲しいことだ。それこそ薬局でノコギリを買い求めるような見方をされているのではありませんか?と聞いてみたくなる。
映画である以上は練られた脚本,面白いストーリー,テンポのいい演出や粋なユーモアなどは大切な要素だ。しかしミュージカル映画というのはそれらを歌と踊りという手段で表現し,あるいは増幅する映画なのである。名曲と楽しいダンスシーン,それらがメインとなって1本のドラマを演出しているジャンルだ。だからこそ愛され続ける。
この「雨に唄えば」はその意味でもまたとない傑作だ。ミュージカル映画のいろんな魅力が絶妙なバランスで溶け合い,映画にひたる幸せを感じさせてくれる。
冒頭のユーモラスな導入部。ここで観客は映画を作る楽しさが充満していた時代の空気を,文字どおり肌で実感できる。ジーン・ケリー扮する主人公が語る無名時代のエピソードとその実体のギャップがひたすらおかしい。今風で言えば大スターの虚像と実像ということになるんだけど,観客を楽しませようという精神が爆発している。その明朗なエネルギーにはひねこびたところがなく,一気に物語に入っていけるのだ。
お話自体はコメディーであるからギャグは命なのだが,キャラクターの持ち味が抜群にうまく描かれているので今見ても大笑いである。トーキー誕生当時のハリウッドを舞台にしているのだが,社長の顔色に忠実な監督の小心ぶりなど実におかしい。そういったサブキャラまでが「ああ〜このおっさん,こんな人なんだろうな〜」と思わせる生き生きした個性に満ちているのである。
そしてもちろんのこと,数々の名曲と楽しい,そして凝りに凝ったダンスシーンの魅力。
実のところ僕は昔からミュージカル映画のファンだったわけではない。かつては僕もまたミュージカル映画食わず嫌い族のひとりだったのだ。しかし,この映画(そしてこの映画を紹介してくれた「ザッツ・エンタテインメント」)を見た時からつまらない偏見を捨てることになった。それだけの力を持った傑作中の傑作なのだ。
世の中には面白いものがいくらでもある。そのことを思い知らせてくれたこの作品にはいくら感謝しても足りないと思っている。
実際,数々のダンスシーン,レビューシーンを見ていると黄金時代とはこういうことか,と思うことしきりである。別項でも書いたようにこのころの芸人(この言葉こそ最大の称号だと思う)の芸達者ぶりというのはすばらしいものであって,現代のダンスシーンしか知らない人々にとってはカルチャーショックであろう。
ごまかしのきかない長回しと固定に近いカメラアングルでこれだけのものを見せてくれる連中の卓越した技量には感動すら覚える。彼らはそれをあまりにも自然にやってのけるため見過ごしてしまいがちだが,ちょっと想像力のある人ならその密度の濃さに驚嘆することになる。
もちろん,こんな仰々しい賛辞を連ねなくてもこの作品の楽しさは説明不要だ。冒頭からラストシーンまで,ムダはひとコマたりともなく,103分めいっぱい心地よい時間が詰まっている。お試しあれ。そして今まで見過ごしていたエンタテインメントの大鉱脈を目の当たりにする喜びを今こそあなたに。