輝国山人の韓国映画
<Home>へ

パン・ハンジュン
方漢駿
방한준
Pang Han-Jun

ペク・ウネン(本名)
白雲行
백운행
Paek Un-Haeng

1905年 江原道で出生

      ソンリン商業高校を卒業後,日本に渡る。

      新興キネマ 現像室,松竹映画社 蒲田撮影所で勤務

1935年 <散水車 [葡萄の異端者] > 演出
       当初は,キム・ソンチュン(金聖春),キム・イルヘ
       (金一海),パク・ルウォン(朴楼越)など日本で一
       緒に活動した映画関係者たちと「近親相姦」という刺
       激的な内容を入れた<葡萄の異端者>を作ることにし
       たが,「近親相姦」は,朝鮮で扱うことができる素材
       ではなかったので,撮影途中に内容が変わり,<散水
       車>という題名で封切られた。

       継父に虐待されて菓子行商をする少女を街の掃除夫と
       うどん屋の老人が救い出すという新派調の内容であっ
       たのにもかかわらず,好評を受けた。

       日本で映画を習ってきた監督は,これで朝鮮の嘱望さ
       れる映画監督として位置づけられた。

       朝鮮中央映画株式会社 創立作品

1937年 パンド(半島)映画社を設立

1938年 <ハンガン(漢江)> 原作,演出
       ハンガン(漢江)を抱いて生活する人々の人生をセミ
       ドキュメンタリー形式で描写した作品

       制作過程からフランス語,ドイツ語,イタリア語の字
       幕のプリントを作るなど,海外市場進出を目標にした。

       半島映画会社 創立作品
       朝鮮日報映画祭 発声映画部門 10位

1939年 <城隍堂(ソンファンダン)> 演出,編集
       チョン・ビソク(鄭飛石)小説を脚色した作品
 
       江原道の深い山の中の炭焼き小屋を背景に,炭を作って
       売る夫婦の悲劇を描いた映画

1939年 <ハンガン(漢江)> 東京 日比谷劇場 封切り(7.19)

1940年 <授業料> 演出
       病気で演出が不可能になったチェ・インギュ(崔寅奎)
       から引き継いで演出した。

1940年 <勝利の庭> 演出
       市政30周年記念作品として企画された文化映画

       志願兵訓練所生徒が東京,大阪などの地に見学行くとき
       に同行取材しただけでなく,訓練所の訓練場面,セット
       撮影などを含む朝鮮での志願兵制度の施行を歓迎して志
       願兵訓練所を紹介する内容を含んでいる。

       制作:朝鮮九貴映画社,提供:高麗映画協会

1940年 東京帝国女子医学専門学校で修学したイ・オクスン(李玉順)と結婚

1941年 <城隍堂(ソンファンダン)> 東京クラブ 封切り(11.9)

1942年 <豊年歌> 脚本,演出
       高麗映画協会の専属監督として入社し,朝鮮の農村を背景に
       増産という時局的内容を入れて演出した作品

1942年 朝鮮内すべての映画制作会社の許可が取り消しになり,総督府
      の統制を受ける社団法人朝鮮映画制作株式会社が発足した。

1942年 社団法人朝鮮映画制作株式会社に演出課員として入社
      国策(宣伝)映画を演出

1944年 <巨鯨傳> 演出
       捕鯨会社を中心に増産と武士精神を高揚するための内容を含
       む映画

1944年 社団法人朝鮮映画制作株式会社は,姉妹会社である朝鮮映画配
      給会社と統合され,朝鮮映画社として再誕生した。

1944年 <兵丁様(原題:兵隊さん)> 演出
       パン・ハンジュン(方漢駿)の映画のうち唯一フィルムが残
       っている映画

1945年 朝鮮映画建設本部 執行委員 兼 技術部長 活動

1946年 朝鮮映画同盟 中央常任委員 活動

1946年 映画監督クラブ 加入

1946年 米軍庁 公報部 映画課長 活動

1950年 6.25韓国動乱(朝鮮戦争)時に北へ拉致

      慈江道(チャガンド)マンポ(満浦)市の捕虜収容所で病死したという証言がある。


※ 参考文献

  韓国映像資料院 発掘された過去3 「兵丁様(原題:兵隊さん)」2008年
   DVD添付ブックレット
    ローカル カラーとプロパガンダの二重奏:パン・ハンジュン(方漢駿)の人生と映画
     ハン・サンオン(ハニャン(漢陽)大学講師)



[最終更新] 2015-02-04
 



【BACK】 (一覧ページへ)