忌み言葉に反逆せよ

LDやDVDなどのソフトがどんどん一般化して,以前は物好きな連中の自助努力によってしか収集できなかったタイトルも容易に入手できる時代になった。これ自体はとてもうれしいんだけど,反面いやあな思いをする瞬間にもよくぶつかるようになってしまった。

音声カットの問題である。

音声中に放送禁止用語や差別用語のたぐいがあるとブツッと不自然な無音状態が入るあれだ。全く腹立たしい限りである。あんな不自然なことしているとかえってそこに注意がいってしまって,さて今の音切れは何と言ってるんだろう,そうか前後の関係からして○×▲※!♂と言ってるんだな,と必要以上に注意を向けさせてしまうではないか。その方がよほど気まずい思いをするのではないかな,見ている方も送り出す方も。

さらにこの問題が深刻なのは,その対象範囲が急速に広がっているように感じられるところだ。

以前は,何十年も前の作品がソフト化されたりテレビ放送されたりするときにこのいやな音声カットが施されていたものだが,最近ではほんの数年前の作品にまで及ぶようになってきている。

つまりある言葉が「不適切」の烙印を押されるまでのスパンがどんどん短くなってきているのである。ついこの前まではOKだったのに今ではダメ,と言われるわけだ。これはドラマ全話ボックスなどの企画が増えてきたせいで気がつくようになったのだが,そのうちドラマがスタートしたときにはOKだった表現がドラマ終了時には不適切な表現でした,などということになるかもしれない。

実際,この問題に対するマスコミの及び腰は滑稽なほどで,ほとんど言葉のゲームと化してしまっている。「今からこれとこれ,それにこの言葉は使わないでしゃべりましょう,罰ゲームはデコパッチン1回ね〜」などといって遊んだことあるでしょ。あれだね。しかも後味の悪さは格別だ。

先日某ニュースステーションで,話題作「スポーン」の原作者へのインタビューをやっている最中に目撃したそれはまことにケッサクだった。

この作者は自作の版権をすべて自分で握り他人の介入を拒否しているため,自らを「コントロール・フリーク」と表現したのだが,通訳はそれを「コントロール・キチガイ」と訳した。すぐさま「コントロール・フリーク」とそのままカタカナ読みで言い替えたが,その一瞬,その場にいた全員が動揺したであろうことが見ていてよくわかった。

まさにタブー,まさに忌み言葉そのものである。口にした瞬間,天罰が下って雷に撃たれるとか,地獄の呪いを受けて血を吹き出して死ぬとか,そういう恐ろしい災厄が即座に降りかかる恐怖を感じているかのようだ。もちろんCM後すぐさま「おわび」のコメントが挿入された。大笑いだ。

メディアの違いはあるけど,小説やコミックでは巻末に「この作品中には現在においては不適切とされる表現が多用されておりますが,これは当時の文化的背景を……」とかなんとか断り書きを入れることで発表当時の表現そのままに刊行されている。

本来はこれすら必要ないとは思うが,この一文で昔の作品がそのまま生き延びるなら上等だ。形ばかり頭を下げるけどその実作品には指一本触れさせないという,これはなかなかふてぶてしいやり方ではないかな。

そこへいくと,映像分野には出版界のようなうまい(したたかな?それでもいい)策はまだないようだ。映像作品においてもこのような取り扱いができないものかと思うが,残念ながらいまのところは力関係の問題なのかもしれない。

黒澤明監督に対して旧作の音声をカットせよ,などとは口が裂けても言えないが,そんな連中も新人監督に対しては平気でそれを要求するだろうと思う。そんな力重視の思想が自分の中の本音としてあることが情けないが,といって弱さを嘆くばかりで力をつけようという気のない連中に表現の自由もくそもあるかい!と思うのも正直な気持ちである。

タブーの少ない社会ほど開けた進歩的な社会だと言われるが,今この国には言葉の問題ひとつとっても過去のどの時代よりもタブーが多いと思う。それを犯すとどうなるかはわからんがとにかくそれはいけないことなのだ,という思考停止のまままかり通ってしまうところが,タブーのタブーたるところであろうか。

抗議を受けたら謝るばかりが能ではない,という放送局や映画会社がひとつでも現れてくれないかな。そうすれば,そんな強気の態度がよいのかまずいのかも本当に判るだろうし,タブーを冷静に考える声も増えると思う。

とにかくキチガイと口にした瞬間に雷に撃たれるようなことはないのだ。