眠りの風景

春だから,ではないけれど

これを書いているのは2000年3月末,20世紀最後の春である。それに何の意味があるってわけでもないが,まことに眠たい季節だ。朝,駅のコンコースを必死の形相で走っている人の姿も珍しくない。きっと寝坊したんだろうなあ。

布団の中,朝の5分間は悪魔に魂を売ってもいいと思うくらい貴重だもんな……だよね。そんなわけでこの季節,いたるところで居眠りしている人を見かけるが,まあ平和な光景ではある。

でも足りない睡眠時間の補給場所が映画館となると,一応映画好きの端くれとしては悲しいぞ。つまんない映画にぶつかった不幸はひとまずおくとしてもね。

「んもー最低だったよ,10分で寝ちまったぜい!」という声はよく聞くけど,確かに退屈な映画を痛いお尻をガマンして見続けるのは苦痛だ。もうちょっと待とう,きっと面白くなるはずだ,面白くなってほしい,面白くなってくれよう〜という願いも空しくスタッフの無能さを2時間かけて思い知らされた日にゃ呪いの言葉のひとつも吐きたくなる。それくらいならさっさと睡魔に身をゆだねた方がました。

傑作,必ずしも……

にもかかわらず,実は僕は映画館で寝たことがない。退屈な映画につきあったことはいくらもあるが,なぜか居眠りした経験がないのである。自分でも不思議だが,どうやら僕は映画館という環境では睡眠誘導物質が生成されない体質のようだ。むろん,自慢しているわけではない。退屈でお尻がムズムズするだけの2時間は拷問に近いのだ。

しかし,自宅で見る映画となると全然違う。睡眠不足や満腹時という悪条件でなくとも退屈な映画だとさっさと眠りこけてしまう。いくら世評高い傑作・名作といえど,眠たいものは眠たいのだ。

劇場なら内心毒づきながら耐えられる映画もホームシアターでは眠りへの道しるべであるらしい。

先日,久しぶりに「去年マリエンバートで」のLDを引っぱり出して見てみた。僕だってたまにはこういうものを見るのだ。アラン・ロブ=グリエとアラン・レネのタッグであるから手強さ?は超一流,すばらしい映像と難解な内容(でも評論家はわかったようなことを言う)で映画芸術の極北みたいな作品だ。

はっはっはっ,オレ様のHPはアニメのテーマソングの話だけじゃないぞ,というところを書こうと思ったのだが……見事に眠ってしまった。開巻15分くらいだったろうか。

あちゃー,昔はちゃんと最後までつきあったのになあ。

修行不足かそれとも

ううむ,まさかこれほど簡単に安眠できてしまうとは。好きな人はめちゃくちゃ惚れ込んでいる作品だけに,眠りこけてしまったと白状するのが申し訳ない気がする。

エンタテインメント作品ばかり見ていたせいでこういった思索映画には耐えられない身体になってしまったのだろうか?なんだかちょっと情けない気分である。若いころは思弁小説みたいなその風景にもなんなくついていけたのだが,これはやはり「堕落」したというべきなのか。

ろくなストーリーもなく延々とモノローグみたいなセリフが(しかもフランス語で)続くと確かに眠気を催すかもしれないが,娯楽作品の文法とは違うのだからそのつもりで見る覚悟はあった。にもかかわらず,このていたらくである。画面からアルファ波でも流れ出ていたのかも。

「去年マリエンバートで」といえば,なんといってもあの幾何学的な庭園の不思議な美しさが印象的だ。あれはミュンヘン郊外のニンフェンブルク宮殿というところだそうだが,かなり以前,TDKのビデオテープのCMに使われていたこともあった。テレビで流れていたからもしかするとご記憶の方もいるだろう。

僕はこんなサイトをやっているけど,本来は映像派ではなく活字派である。だからこういうお話も小説としてならいつだって楽しめると思うのだが,映画として現出した雰囲気は活字のそれより濃厚だ。もしかするとそれゆえに人を異世界に誘う力も強いのかもしれない。見る力のある人は文学的異世界へ,俗人は眠りの世界へというわけだ。

眠りの風景

初めて見たときの印象を思い出してみると,やはり迷宮のような映像かな。冒頭10分くらいで「おいまさかずっとこの調子か」と青ざめつつ,しかし手当たり次第に見ていた時期の情熱ゆえか,最後まで「体験」できたのは幸いだった。

決して眠くなるようなことはなかったのだが,もしかすると背伸びしていたのかもしれない。人は誰も見ていなくてもカッコつけたがるものなのだ。

今こうしてあれこれ思い出してみると次々にいろんなことが浮かんでくるし,あの庭園のイメージはやはり強烈だ。ちょうど昔の思い出が時とともに変容していくように,自分の中ではこの世のものとも思えぬ幻想庭園のイメージになってしまっている。LDのジャケットを見ているだけで何となく不可思議な香りが立ち昇っている気がするくらいだ。うん,これはやはり再挑戦せねばな。

ミステリアスな夢を見るにはまたとない触媒といえる作品なのだが,こちらの感性がすり減っているようでは難攻不落。眠りの風景と居眠りの風景は全く違う世界なのである。

歳をとって肩の力が抜けたのはいいが,抜けすぎて文学的緊張感のような張り詰めた精神で映画に対面する機会が持てなくなったのはちょっと寂しいかも,などと考えている。

そんな見方もまたあるべき姿のひとつだと思うのだ。