採点症候群

映画ってホントに楽しいですね……ってホントですか?

こんなサイトを開いておきながら言うのもなんだが,映画ファンと名乗る人はどうしてああも評論家のまねごとが好きなのだろう?

いや確かにその気持ちは分からないでもない。高みからものを言うのはなんだか自分が偉くなったようなひそかな快感があるのだ。むろんそんな風に言ってしまってはミもフタもないが,本音はそんなところだろうと思っている。認めたくはなくともね。これはけっこう手強い誘惑なのだ。

映画の話題で楽しくやりましょう,というサイトやBBSの内容が実は「ここがダメ」「あそこは不満」「こうすればよかった」の大合唱になっていることは珍しくない。まるで批評やコメントするために映画を見ているみたいだ。それじゃつまらんだろうに。

映画を見ることが出会いではなく「対決」になっている人のなんと多いことか,と思う。さしたるものさしもないのに「採点」したがる人のページがそれを示している。

星がいくつで安心?

「私なりに採点してみました」「オススメ度を表しています」と言って点数や★マークを並べている人は多い。しかしそんなことで完結していてはいけないのだ。なぜなら人はあるものについて採点し整理してしまうと頭の中でも「評価済み」のレッテルが貼られてしまい,もう二度と省みられなくなってしまうからだ。

映画の寿命はそのとき限りのものではない。

ものを知らず経験も浅く目も肥えていないときに緻密で思慮深い作品を浅はかにも採点してしまった人は不幸である。よほどのことがない限りもう一度まっさらな気持ちで見てみようとは思えないだろう。5年後10年後に味わえるかもしれない感動を閉め出してしまっているのだ。なんてもったいない。

逆に,知的で教養もあり映画もたくさん見ている,それゆえにかたくなな基準を作り上げて容赦のない審査員になっている人も少なくない。自分の決めた形しか受けつけられないのでこぼれ落ちるものがたくさん出てくる。それらはみな瑕疵(キズ)や欠点にしか見えない。なんてお気の毒な。

さあ,もう採点なんてやめてしまえ。ものさしの目盛は自由に書き換えればいい。目盛には時間軸も付け加えよう。できれば尺度の違うものさしを何本も持ちたい。測量し分析し採点するためではない。間口を広げるためである。

独断と偏見で書いてみました

そういえばもうひとつ,よく点数や★マークとセットで登場するのが「独断と偏見」である。「独断と偏見で採点してみました」「これらの評価は私の独断と偏見によるものです」等々。

僕はこのセリフが大嫌いである。

突っ込まれたときの予防線のつもりか知らないが,ロッカーに隠れて文句たれているような図が浮かんでくる。カッコ悪いよ。「独断と偏見」の前置きなしでは安心できないのだろうか。手の中の貧弱なものさしを見せてみろと言われるのが怖いのか?それでいて採点したい誘惑には寛大なのだな。

むろん,僕にも独断や偏見は人並みにある。大嫌いと言いながら,もしかすると自分のページでもうっかりこの言葉を使っているかもしれない。好みの問題,と言うのと紙一重だからだ。「これはポイント高いよ」と書くとき僕自身もまた独断と偏見によって採点しているのかもしれない。

であればこそ,今現在(2000年夏)の覚悟として「独断と偏見」の後ろに隠れることなく語りたいと思っている。拙いアマチュアのサイトであってもここにあるへたくそな文章のすべてが僕のものさしである。

まだ誇れるほど豊かではないが。