リメイク&コンティニュー

文化出がらし説を提唱してみる

しばらく前から映画界,特にハリウッドでは続編とリメイクが大きな柱になっている。これをどう見るかということについてはすでに様々な意見が出されているがだいたいにおいて好意的なものは少ない。

企画ということで言えば原作付きかオリジナルの話かという問題もあるけどこれは続編やリメイクブームとはちょっと別の話なのでここでは触れないでおく。でもオリジナルの枯渇,企画力の貧困という否定的な見方で共通しているというのは残念ながら事実だろう。僕だってそう思う。

続編についてはパート2を作るということ自体が(その出来にかかわらず)すでに元の作品の完成度を損なうことだと言えなくもない。映画のどこに価値を見出すかは人それぞれだが,作り手たちの中にも続編製作を頑強に拒否している人がいることは事実だ。

リメイクとなるとまた別の感慨もあるのだが個人的にはこれもあまり支持できない。いよいよネタ切れなんじゃないの?と言いたい気分を否定できないのだ。

結局,考えてしまうのは映画の企画,物語のストック,文化的な潜在能力というのはこの100年でだいたい底をついたんじゃないかということ。要するに映画について言えば人類の文化的な才能というか手持ちのネタは100年分が限度だったんじゃないか。ちょっぴり皮肉っぽい見方だが今はそんな風に考えている。

つまりこれで新鮮なお茶のエキスは全部出尽くしたので今後は出がらし期に移行するということだ。よって映画界は以後この100年分の遺産をあれこれ使い回してやっていくことになるのではないだろうか。

だからパート2ものやリメイクブームを嘆いてみても仕方がない。実はこのあたりが人類のオリジナリティの限界だったのだから……。ファッションや音楽でも昔のものが繰り返し流行するところを見るとそれらもまたせいぜい数十年分のバリエーションが人類の限界だったのでは?などと妄想しているところだ。

どこからがリメイクなの

たとえば今「サウンド・オブ・ミュージック」や「風と共に去りぬ」をもう一度映画化したらこれは明らかにリメイクと言われる。まあそんな無謀な挑戦はおすすめできないけどね。

対して今「トム・ソーヤー」や「赤毛のアン」を映画化したらこれは必ずしもリメイクとは言い難い。過去にすでに映画化されているにもかかわらずだ。こういうのは「これで2度目の映画化です」とか「20年ぶりに映画化されることになりました」という言い方をされると思う。

その違いはどこにあるかと言えばもちろん「決定版」の存在だ。チャールトン・ヘストンの「ベン・ハー」はハリウッドでは何度目かの映画化だったけど今では「ベン・ハー」といえばあのワイラー監督の作品を指す。先行した20年代の「ベン・ハー」も実に立派な出来映えなのだがそれでも映画史上に輝く「ベン・ハー」と言えばチャールトン・ヘストン主演のあの作品だ。だからもしまた映画化されるとなったらそれはリメイクと呼ばれてしまう宿命にある。誰もが認める決定版が誕生して初めてリメイクというレッテルも生まれるわけだ。

真の動機を邪推してみる

最近のハリウッドはとにかく世界中からリメイク権を買い漁っている。邦画もアジア映画もフランス映画もスペイン映画もという具合。なぜ彼らはかくも熱心に海外の名作をリメイクしたがるのであろうか。

僕はその真の動機はもしかすると嫉妬ではないかと邪推している。彼らはハリウッドですでに枯渇してしまった豊かなオリジナリティや単純なアメリカ人には発想できない深みを海外作品に見つけると羨ましくて仕方がなくなるのだ。そういうものを目にした時,彼らはそれを作ったのが自分たちではないことに我慢がならず、リメイクによって自分たちが作ったことにしてしまいたいのである。

オリジナルに対する羨望,嫉妬,悔しさを自己解消するためには自分たちの手でリメイクしてこのすばらしい作品(オリジナルの方)にはちゃんと自分たちの血が混入しているのだと納得したいのである。そうすることで自分たちは負けたわけではないと自分自身に言い聞かせたいのだ。

……などとまあ妄想しているのだが,実際問題としてハリウッドの企画の衰退ぶりはかなり深刻なところに来ていると感じる。出がらし期のアメリカ映画がそれでも楽しいのは認めるけどやっぱりリメイクと続編頼みというのはちょっとさびしいかな。

ちなみにハリウッドの枯渇したオリジナリティを救うために必要なあらゆるジャンルにおけるドラマの大鉱脈……少女マンガという未曾有のアーカイブが日本には眠っているのだが,果たして彼らがその存在に気が付くときは来るだろうか。真に200億かけて映画化すべきは「宇宙戦争」や「アレキサンダー」ではなく「7つの黄金郷」であるべきだと僕などは思うのだがな。