大人の鑑賞に堪える?

下手でも悩むんです

毎回僕の拙い文章に付き合ってくださってありがとうございます。映像体験の楽しさをテキストだけで伝えようとするのは本来ムチャなんですが,自分に扱える道具はこれ(言葉)だけなので,稚拙は承知の上で細々と続けています。

まあ,書くこと自体を楽しんでいるのは事実だし,アマチュアゆえの気楽さも実感していますが,それだからこそ面白く読んでもらうために気を遣いたいこだわりもあります。

うまく言えませんが,言葉だけを頼りに何年も続けてくると,使いたい言い回しとか使いたくない表現のリストが自分の中にたまってきて,時にパッと明かりが灯ったり,逆に警報が鳴ったりします。

実感としては警報が鳴る方が多いかな。

常套句だけどその表現にはちょっと疑問がある,そんな言い回しを不用意に使うと何となく楽しくない感じがするんですね。自分の中で。その印象はおおむね正しくて,たいていはNGになるか後で書き直したりすることになります。

その言い回しを自分が信じてない,という感じが強いときはこの警報が鳴りますね。例えば本日のお題「大人の鑑賞に堪える」という表現などもそのひとつです。実は今の僕はこの言い回しがキライなんです。

いかなる人物像であろうか

この「大人の鑑賞に堪える」というのは,だいたい子供向け作品などが意外にもクオリティが高くて予想以上に充実していた場合などに使われますね。使っている当人は褒め言葉であることを疑っていません。

でもよく考えてみると,ここでいう大人ってどういう人たちでしょう?

イメージとしては,様々な面で年少者たちより経験と素養が豊かで,ものを見る目が肥えていて,インテリジェンスもある……そんなキャラクターが浮かんでくる気がするのですが,いかがでしょう。確かに大人はそうあった方がいいとは思いますが,現実には大人の大半は……。

明らかに子供の幼稚さを脱した人格と経験と見識の持ち主は確かに存在しますが,今の世の中,それが多数派とはとても思えませんよね。となると「大人の鑑賞に堪える」という表現は厳密には「一部の大人の鑑賞に堪える」と言うべきなのかもしれませんが,それじゃかえって何のことかわかりません。

年齢層によって見るもの接するものが区分けされていた昔と違って,現代ではメディアやアートの"対象年齢"も客層も入り混じっています。世代別の"蓄積"が昔のように一律ではなくなっているんですね。しかも精神的な成熟・未熟とは関係なしときてます。

ですから作品の評価として「大人の鑑賞に堪える」という表現はもうほとんど意味がないと思うのです。

うぬぼれないで,自分

そういう風に表現としては実質的に死にかけているはずなのに,なぜ「大人の鑑賞に堪える」が使われ続けているのでしょう?ひとつにはやっぱり常套句は楽だからです。言葉のひとつひとつに厳密な表現を要求されない場合,昔からの決まり切った言い回しは書き手にとって大変便利でラクチンですからね。

そしてもうひとつ。大人の鑑賞に堪える,と言う人にとっての大人とは自分のことだからです。

映画でもアニメでもコミックでもいいですが,それを評価しコメントする人自身が自分の知識,教養,見る目,感性といったものを"大人のもの"と疑わず,自分の鑑賞に堪える=大人の鑑賞に堪えると信じ切っているわけです。自分が未熟かもしれないとは決して考えない。必ずしもうぬぼれているわけではなくて,そんな疑問そのものがないんですね。

だから無造作に「大人の鑑賞に堪える」と書いて(言って)しまうのでしょう。

僕自身も時々「これこそ大人の仕事」だとか「成熟した大人たちの仕事ぶり」といった表現を使っているので,その度に同じ罠に落っこちかけているのかもしれませんが,少なくとも最近は"警報が鳴っている"自覚があるだけましかなと思っています。

アマチュアでもこういうこだわりは捨てたくないんです。