架空映画史

歴史にIFはないけれど

タイムマシンというSFの小道具がなぜ昔から根強い人気を保っているかというと,そこから必然的に生まれてくる歴史の改変やタイムパラドックスといったテーマがたいへん想像力を刺激するからだ。端的に言って面白いのである。

歴史にIFはないというけれど,もしあの時違う選択をしていたら,という妄想はお話好きの人にはこたえられない。だから今でもジャンルを問わずこのテーマは作られ続けているわけだ。趣向を凝らし,あっと言わせる展開を用意し,パズルが解ける快感と因果の糸の不可思議さを描こうと作り手たちは日々頭を絞っている。

しかし,そうした物語の楽しさはなにもできあがった小説や映画の中だけにあるわけではない。映画好きならもしもあの時……というネタはたくさん仕入れているはずだ。有名な作品であればあるほどその裏にはいろんなエピソードが転がっているし,近年はDVDのサプルメントなどでそういった「今だから話そう」的な事実が明かされることも少なくない。

あの映画にはこんな事情があったのか,とか,もしかしたらこの役はあの人がやってたかもしれないんだ,という裏話はいくらでもある。ならば,そういったあり得たかもしれないもうひとつの可能性をつなげていったら,全く別の映画史が妄想できるのではないか。

こことは違う,となりの世界のハリウッドでは微妙に違う映画の歴史が今も展開中かもしれない。そう考えると楽しいぞ。

無念を晴らすか願望を達するか

最近はちょっとブームも下火だけど,ひと頃わが国の娯楽小説界では架空戦記ものが大流行していた。なぜあれほどあのジャンルが好まれたのか本当のところはわからないけど,ひとつだけ僕が確信しているのは,太平洋戦争での惨敗をどうしてもなかったことにしたいという気分が日本人の潜在意識に根強く残っているのではないかということだ。

せめてもフィクションで無念を晴らしたいという気持ちはまあわかる。また,自分たちがヒロイックに活躍したい,戦って勝ちたいという願望も少なからずあるだろう。だから歴史を曲げたいと願うわけだ。

この事情は実は映画ファンにだって理解できるはずである。どっぷりつかっていればなおさらだ。なぜなら裏の事情を知れば知るほど「この映画は途中で降板したあの女優さんでこそ見たかった」とか「このシーンをカットしたのは絶対に間違いだ」といった思いがとめどなくわいてくるからだ。見果てぬ理想像を幻視する材料をしこたま抱えている者にとって,それは抑えがたい衝動なのだ。

長年の映画ファンというのは,映画の歴史が変わったかもしれないその瞬間が実は手の届くところにあったことを知っているのである。

大物は可能性もまた大きい

映画史上に名高い名作・傑作の類は単に優れた作品というだけではなく周りへの影響力も大きい。素晴らしい映画は時に人の人生さえ変えてしまうほどだ。もしそうした映画のメインキャストのひとりでも変わっていたらどうなったか。それは誰にもわからないけれど,いろいろ想像できる余地もある。

たとえば「マイ・フェア・レディ」が舞台と同じジュリー・アンドリュース主演で映画化されていたら,少なくとも彼女主演の「メリー・ポピンズ」は存在しなかったはずだし,同作が受賞するはずだったオスカーの行方もわからない。ジュリーは最高の歌手だから吹き替えの必要はなく,当然マーニ・ニクソンの出番もない。あの映画をめぐる女たちの確執?もまた存在する余地はなかっただろう。

オードリー・ヘプバーンがかわりにどんな作品に出演することになっていたかも興味は尽きないが,今となっては想像もつかない。

こんな具合にビッグネームの作品ほど歴史改変の多様な可能性をはらんでいるわけで,妄想のタネは尽きない。今はそういった情報も手軽に探せる時代なので,ベテランの映画ファンならずとも様々なターニング・ポイントを考察することが可能だ。やってみると面白いぞ。

サンプルならいくらでもある

試しに,有名どころの作品でよく知られている「もしも」が実現していたら,というのをいくつかあげてみよう。あちらの世界の出来事,架空ハリウッド映画史の一幕といったところだ。

1939年 オズの魔法使 公開
ただしあの有名な「虹の彼方に」が存在しない「オズ」である。当初あの曲がカットされるはずだったことは有名。
1939年 風と共に去りぬ 公開
ヒロインのスカーレット・オハラ役はポーレット・ゴダード。スカーレット役をめぐる騒動はそれだけで1本の映画ができるほどだ。ゴダード版の「風と共に去りぬ」が歴史的名画になったかどうかは推測不能。
1950年 アニーよ銃をとれ 公開
ただし主演はベティ・ハットンではなくジュディ・ガーランド。ジュディの撮影済みシーンはメイキングなどで見ることができるが,正直,これは実現してほしかったかも,と思っている。
1952年 雨に唄えば 公開
あの有名なシーン,ジーン・ケリーが雨の中で「Singin' in the Rain」を歌うシーンのない「雨に唄えば」である。この事情はメイキングで語られているが,もしそうなっていたら映画の題名そのものが変わっていたかもしれない。
1953年 ローマの休日 公開
アン王女役はエリザベス・テイラー。候補のひとりだったらしい。テイラーが嫌いというわけではないけど,実現していたら日本民族の魂は今とは違うものになっていただろう。
1962年 女房は生きていた 公開
こちらの世界ではついに未完に終わったマリリン・モンロー最後の作品。いやー,これは実現してほしかったなあ。
1963年 鳥 公開
主演グレース・ケリー。実際には掌中の珠グレースをモナコ王室に奪われたヒッチコック先生はケリー似のティッピ・ヘドレンを使った……とかなんとか言われているけどさてそのへんはどうなのかな。
1964年 マイ・フェア・レディ 公開
イライザ役はジュリー・アンドリュース。この例は先に述べたとおり。それからもうひとつ,オードリーが全曲歌った「マイ・フェア・レディ」というのもあり得たかもしれない。数曲分は現存していることだし。
1967年 2001年宇宙の旅 公開
美術デザインを手塚治虫が担当。オファーがあったことは有名だ。どんなディスカバリー号になっていたのか興味津々だけどさすがにこれは見たいような見たくないようなといったところが本音。
1974年 エクソシスト 公開
悪魔に取り憑かれる少女リーガンの母親役はオードリー・ヘプバーン。これは同作のメイキングでキャスティング案として触れられていた。この十年前に「マイ・フェア・レディ」に出演しなかったオードリーが歩んだ道の中にこれがあったのかも。そうなっていたらオカルト映画の扱いは一変していたかもしれない。
1977年 スター・ウォーズ 公開
三船敏郎演ずるオビ・ワン・ケノービがライト・セーバーですごい殺陣を見せてくれたはず……と信じたい。この時点でルーカスがもうちょっと有名監督だったら実現してたのになあ。

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ハリウッドに代表される映画界は相関図が乱立するほど人も組織も入り乱れているから,どこかでひとつ違う道が選ばれていたら歴史が変わっていたかもしれない。そんな妄想でひととき遊ぶのもたまには楽しいと思うよ。