時計新時代の風景

怪現象も怖くない

ロバート・ワイズ監督の「アンドロメダ...」という傑作SFサスペンスの中で舞台となる研究所の自爆装置が作動するシーンがある。そのシーンで印象的だったのは自爆装置のタイマーがアナログ表示だったことだ。ありふれたデジタル表示のタイマーと違って,アナログ時計の針がさっとリセットされ爆発までの時間を刻み始める,その常ならぬ針の動きが一瞬の衝撃を与えたのだと思う。

同様に,昔のホラー映画のワンシーンで時計の針が勝手にくるくる動いたりするとそれは登場人物にとっても観客にとっても恐怖の対象であったし,怪奇現象として恐れられてもいた。

アナログ時計の針の動きというのは僕たちの基本的感覚のひとつと言っていいくらいこの身に刻み込まれているので,その針がいつもと違う動きをすると何かしらショックを受けるのだ。

しかし,これからはもうそんなシーンは全然恐くない。幽霊屋敷の時計が不可解なふるまいをしてもどうってことはないぞ。時計の針は「ときどき勝手に動くもの」になってしまったからだ。規則正しいことの代名詞だった時計の針のイメージが大幅に修正される時代になったのである。

電波時計がやってきたのだ。

我が家の原子時計

先日,壁の時計がお亡くなりになったのを機に,新しい掛け時計を買った。最近はやりの電波時計というやつである。全国をカバーする時刻情報を乗せた標準電波により,常に正確な時刻を表示するという優れモノだ。以前から売られていたのだが,いつの間にかずいぶん値段もこなれてきて,それなら,と思って買ってみたわけだ。

見た目は普通の時計と変わらないし,受信アンテナがうにょーんと伸びているわけでもないが,なにしろ誤差は10万年に1秒とか30万年に1秒というとんでもない代物だ。精度という言葉は「誤差」を前提にしてこそ意味があるのだが,実質誤差ゼロの時計はもはや精度というスペックを無意味にしてしまった。

要するに原子時計を家庭に持ち込んだようなものである。

日常生活には完全なオーバースペックであるが,日用品に異常なまでのクオリティを求める我が日本人にはぴったりではないか。電波時計以前の時計はすべてクラシックな時計になってしまったのである。もうNTTの117番も用済みだ。

僕はゼンマイ式以降の時計の変遷はひととおり経験してきた世代だが,この電波時計にはそれらのどの時よりも深く静かなインパクトがあった。何かいろんなことを考えさせてくれる代物なのである。

もっとも,この感じは文字盤がアナログ表示の場合に限られる。僕は今まで時計のデジタル表示とアナログ表示の差を意識したことは特にないのだが,今回初めて違うものを感じた。正確無比といっても数値が切り替わるだけのデジタル表示ではなんの面白味もないのである。アナログ式の,正しい時刻を求めて針が勝手に動いてゆくその様子が妙に生々しくて印象的なのだ。ハイテク機器でありながらあえて可動式の針で表示することのアドバンテージは確かに存在するのである。

映画も変わる?観客も変わる?

まだそれほど普及してない(今は2002年1月)けど,電波時計の動作が人々の感覚になじんでしまえば,クラシックなホラー作品で時計が妙な動きをしてもそれのどこが怖いのかわからない観客が出現するかもしれない。

あるいは,深夜の暗い部屋でコチコチ鳴る音がだんだん恐怖になっていくという場面などいくらもあったが,今の電波時計は灯りを消すと秒針が止まる(スリープ機能……当然コチコチ音も止まる)のでそんな描写はもう過去のものなのである。

こうなると映画やドラマの中でも小道具としての時計の表現にはこれまでとは違った感覚が必要になってくる。僕の大好きな「時をかける少女」であちこちに出てくる時計の描き方なども,今までの時計のイメージでなら叙情的でたいへん印象的だが,もし電波時計時代にリメイクするとなると監督は熟考を要することになるだろう。

また,電話の進歩によって「ダイヤルする」という行為が消え失せたように,いずれ「時計合わせ」という行為もなくなってしまうはずだ。アクション映画などである作戦をスケジュールどおり決行するために各人の時計を合わせる場面がよくあるが,それを見ても何をやっているのか,なぜそんなことをしなくちゃならないのかわからない世代が登場するかもしれない。

電波時計を体験してしまうとこういった描き方はいずれ成立しなくなることを思い知る。少なくとも,時計の誤差をネタにした演出やストーリーは現代以降を舞台にしてはかなり難しくなる可能性大である。まあ,それはそれで電波を遮蔽して時計に干渉するといった新しいアイデアや展開を生むだろうから楽しみにしておこう。

それにしても時計の扱い方ひとつで時代感覚を見破られてしまうかもしれないのだから,作り手にとってはまた難儀な時代がやってきたものである。