「さびしんぼう」こんなに泣けていいんですかぁ

涙の記憶も大切に

ノスタルジーやセンチメンタリズムを前面に出した作品に対しては「甘い!」の一言で厳しく論ずる方も多い。確かに作者(監督)だけが酔っていてちっとも観客にまで響いてこない作品も少なくないし,そんな出来ではズダボロに言われても仕方がない。観客が先に白けてしまっては話にならないからだ。

であればこそ,監督の全霊をあげての演出と情熱が実を結んだ作品というのは永く忘れ得ぬ名作となりうるのである。観客は涙の記憶とともにその作品に特別の称号を与えることになる。

大林宣彦監督の「さびしんぼう」はまさにそのような名作である。

ひとりで見るよろし

見るたびに涙腺が決壊する映画というのがあるとすれば,この作品はその最右翼といってもいいだろう。以前見たときも泣けて仕方がなかった記憶があるが,今回この一文を書くために再見してやはり滂沱と落つる涙などという古典的な言い回しを使いたくなるくらい泣けてしまった。ううう。

ああ,こんなに泣けていいのかしらん。とてもじゃないがこの映画,人と一緒には見られない。泣き顔を見られてしまうこと確実だからである。

それぞれのシーンの隅々にまで行き届いた細かな配慮,そして登場人物たちの感情が静かに満ちて生み出すあのクライマックスのたとえようもない切なさ。悲しくて泣くのではない。つらくて泣くのでもない。ましてやよろこびで泣くのでもない。若いころ胸の裡に抱えていた手に負えない気分のかたまりのようなものが痛みとともに声をあげているのである。うひゃー恥ずかしいことを書いてしまったぞ。

希有の才能に出会う

なんといっても富田靖子がすばらしい。最高。絶品。

あこがれのアイドルが映画やドラマで悲しいほど稚拙な演技しか見せてくれなくて「若いんだから下手でも仕方ないんだ」と自分に言い聞かせたことのある人は手を挙げて!そんなあなた達にはこの映画の富田靖子嬢がいかにすばらしいかおわかりになるはずだ。

実力あるねーとは皆が認めるところであるが,この作品の彼女は本当にいくら絶賛しても足りないくらいだ。若くてまともに演技力があるというのはこれほどにすばらしいことなのである。

橘百合子とさびしんぼう,キャラクターとして両極端の二役を"こなす"のではなく"生きて"いるというこの感じ。それを引き出す大林監督も演じきった彼女もみごとだ。下手するとベタ甘のどうしようもないお話になる危険性さえあったはずだが,ラストの満足感はご存じのとおり。いやー,日本映画の財産ですなあ。

周囲の人々もまたよし

相手役の尾美としのりがまた独特の持ち味でいい。大林監督の映画ではおなじみの彼だが,二枚目でもなく,性格俳優ってタイプでもないのにあの存在感というのは何なんだろうな。確かに俳優さんなんだが,他の男優とは所属するリーグが違うという感じ。芸能界ではなくスクリーンの中の人物という印象がこれほど強い俳優さんも珍しいのではないか。

そして彼の母親役の藤田弓子。おばさんの役だけど昔小川宏ショーのアシスタントをやっていたころの彼女はちょっと太めで色っぽいお姉さんという感じが好きだった。セクハラで訴えられそうな掛け合いも楽しそうにやってた。お昼の連ドラで半村良風の伝奇ロマンのヒロインなんかやってたのが今でも印象に残っている。

こうしてみると,キャスティングもこの映画の成功の一因だというのがよくわかる。名作が生まれるときというのは結果的にあらゆる要素が自然にベストに収まっているものなんだろうな。

名作の証に涙する

それにしてもクライマックスの雨のシーン。日本映画史上最高の名場面のひとつではなかろうか。涙と鼻水でぐしゅぐしゅになってあれを見てしまったら二度と忘れることはできまい。したり顔で論評したがる連中が観客たちの心の中からきれいさっぱり抹消される瞬間でもある。

目の前に惨憺たる現実が横たわっているとしても,ひととき映画の中に美しい世界を見ることのすばらしさをこれほど清冽な涙とともに教えてくれる作品は滅多にない。映画ファンにとって限りなく貴重な作品だ。

ラストのカーテンコールには「時をかける少女」とはまた違った幸福感が満ちていた。