「パウダー」泣かずともよい,ただ空を見上げよ

気にするなと言っても

誰しも感動的な映画を見た後はその作品に対する他人の評価を聞いてみたくなる。自分が傑作だと思えば傑作なのだ,他人の言うことなどに耳を貸すまでもない,という意志強固な人でさえ,例外ではない。と思う。

そこでキネマ旬報を開いたり,映画フォーラムやインターネットでその作品の評判を探ってみたりするのである。ところが,当然のことながら自分の傑作が他人にとってもそうとは限らない。好意的な評に接するとこの上なく満足で上機嫌になるが,時として意外なほどの酷評を目にして驚いたり憤慨したりするわけだ。

そしてやっぱり自分の感想だけが唯一であって他人の言うことなど気にすることはない,とあらためて確認に至る。で,次からは他人の評など気にしないかというとそんなことはなくてやっぱり他の人の感想が気になってしまう。どうもこれは映画好きが逃れられない性(さが)であるようだ。

最近僕自身がそういう例にぶつかった。

これが傑作でなくて何だというのだ

96年の作品「パウダー」がそれである。劇場では未見,LDが出たときに惹句につられて買ったものだがこれが予想以上に出来がよくて見終わったときには「おお〜これは掘り出しもんだったわ〜」とうれしくなってしまった。

そこで雑誌の記事やインターネットでの映画評をあさったのだが……これが冷たいのである。予想外に手厳しい評が多いのでちょっとぐらりときてしまった。思わずホワーイ?と異国語でつぶやいてしまったぞ。

胎児の時に母親が落雷にあい,アルビノの白い肌をもって生まれた少年パウダー(本名ではない。意味はおわかりだろう)は不思議な目の色,驚異的な知性,そして超常的な力を持っていた。心優しい孤独な少年は不気味な外見と身にまとう不可解な力ゆえに迫害され苦難の道を歩むことになる……。

この筋書きは昔からSFでは常套的に使われたモチーフで目新しさは特にない。演出だって意地悪な見方をすれば「さあ感動しろ,さあ泣いてくれ」と言わんばかりだ。

それでもこの映画に対する僕の評価は「いや〜ええもん見せてもらいましたわ」に尽きる。いくら客観的な批評を持ち出されようと,結局観客の「だってよかったんだも〜ん」の一言を突破することはできないのである。そのことをあらためて実感した映画だった。オレ様の心がそう言ってるんだ,文句あっか,てなもんである。

天より来たりて

パウダーは純粋なるものの象徴として人間社会の偽善と矛盾をその身に受け,悲しみを抱いたまま天に帰るが,悲劇的な印象はそれほどない。苦難の果てにかすかに結ばれた人間たちとの絆があるからだ。

そしてこの映画,見せ方もなかなかうまい。パウダーの異常な力が発揮されるシーン,たとえば彼の驚異的な記憶力が明らかになるシーンや最初のいじめにあったときに彼が見せた「スプーン」引き寄せのシーンなど,SFファンならひひひと喜ぶセンス・オブ・ワンダーがある。

その気になれば世界をひっくり返せる力を持ちながら彼の優しさと知性はそのような暴力的な力の愚かしさを知っている。対する人間たちは愚劣さの権化として描かれながら,それでも彼らを見捨てることはできないというパウダーの視線こそこの映画の良心であろう。

ああ,なんてえ小難しい理屈をこねているのだろう。もっと素直に,彼の無垢な微笑と優しさに感動しちまったぜいと言えばいいのだろうな。

人の正体を見よ

ところで劇中でパウダーをいじめる連中だが,彼らは実のところパウダーの異様な姿や不思議な力に反発して彼を憎むわけではない。理由なんてないのだ。ただひたすら盲目的な憎悪を抱いてしまうのである。

とにかくこいつは目ざわりだ,なんとしても排除しなければならない

という強烈な衝動に突き動かされて彼らは憎むのである。自分でもなぜこれほどにパウダーが憎たらしいのかわからないのではないか。あの理由なき憎悪こそ愚かな人間のどうしようもない罪業なのではないか。清浄なものを見ると本能が沸騰して汚したくなる気持ちを抑えきれないのである。

そこまで考えるとわかってしまった。

この映画に対して罵詈雑言を浴びせずにはおれない人々というのは,劇中でパウダーの無垢な魂をやみくもに否定せずにはおれなかった連中と同じところをこの映画に突かれたのではないか。彼ら自身にも正体不明の激烈な衝動がこの映画を否定せずにはいられなかったのではないだろうか。それがどこからやってくる感情であるのか,この映画にもその答はない。

しかし稲妻を浴びながら草原を疾走するパウダーの姿には解き放たれる魂の歓喜があった。残された人間たちの歩みゆく道にも光はさしている。