「パンドラ」怪談と書いてロマンスと読むべし

埋もれたる小箱

僕はパンドラという名前にはいささか思い入れがある。このサイトの中にもその名を付けたコーナーがあるし,わが家のメインマシンのComputer NameもPandoraだ。ネットワークはZeusで実家のMacはPandora2という具合。子どものころ教科書でパンドラの箱の話を読んで以来,その名はずっと心に残っている。

パンドラというと普通は例の箱のエピソードくらいしか思い浮かばないかもしれないが,ちょっとギリシア神話の本にでも当たればたちまち様々な印象がわいてくる。少なくとも僕にはとても魅力的なキャラクターだ。

神話中のビッグネームだから当然その名はいろんな創作のモチーフにもなっている。もちろん映画も例外ではない。僕が直接目にしたことがあるのはただ一本,1951年のイギリス映画「パンドラ」だけだが,これは不思議なラブロマンスでなかなかの逸品だ。どちらかといえば埋もれたタイトルのひとつだけど,メインストリームの話題作とはまた違った味わいの映画である。

51年といえばすでに半世紀以上昔ということになるから「うわ,古い〜」という声が聞こえてきそうだが,あの最新技術の象徴みたいな「スターウォーズ」だってもう四半世紀前の映画である。今はそのくらい未来社会に突入しているのだから半世紀くらいじゃ古いうちには入らない。50年代なら映画にとっては黄金時代に等しいから心配には及ばないよ。

神話と伝説の出会い

この「パンドラ」という映画,実はけっこう紹介が難しい。エヴァ・ガードナーとジェームズ・メイスンのラブロマンス?……うん一応正しい。伝説をモチーフにしたファンタジー?……うーん,それも間違いじゃない。では妖艶な美女と不死身のゾンビが愛し合う怪奇譚というのは?……むむむ,ひどい言い方だな,そういう一面もあるけどもっと言葉を選べよ。

映画の原題は「Pandora and The Flying Duchman」という。実はこのタイトルが内容を表しているのだ。パンドラはわかるとしてフライング・ダッチマンって何だ?と思う人も多いだろう。ではさまよえるオランダ人ではどうだろう?これなら思い当たる人もいるかもしれない。

さまよえるオランダ人はやはり有名な伝説で,妻の不貞を疑って殺してしまったオランダ人の船長が神を呪い,その報いで不老不死となって永遠に七つの海をさまようというもの。この映画はパンドラとさまよえるオランダ人という本来は関係ない二つの神話・伝説をミックスした愛の怪談なのである。

舞台は30年代頃のスペイン,地中海沿岸の港町エスペランザ。人生に倦み,男たちを惑わしては次々に破滅させる妖艶な女パンドラは,ある日港に現れたヨットの男と出会い魅かれていくが……。

見る前はこれがどういう話かわからないし,解説にもミステリアスな愛の大作なんてあるから神話のモチーフを現代劇にアレンジした恋愛映画なのかなと思っていた。ところが,実はこれ本当に怪談だったのだ。今ならファンタジーと言ってしまいそうだけど,何しろ50年以上前の作品だ。展開も演出も古典的というか大人の格調みたいなものが漂っていて今風のカタカナ言葉じゃ似合わない。

そこがいいんだな。確かに不思議な物語ではあるけどそれが話の雰囲気にとてもなじんでいていい感じなのだ。タイプは違うけどちょっと「ジェニーの肖像」を思い出したかな。

謎は美しくあれ

ある日,漁師たちが海で女の遺体を見つけるシーンからこの映画は始まる。それはプロローグであると同時にエピローグでもあるのだが,その間に横たわる不思議な愛の物語には年代物の幻想小説のような風情が漂っている。テンポはゆったりとしているが,登場人物の一人である考古学者の語りで話が進むので,読書の楽しみに似た落ちついた味わいがある。

何しろ初めは古い恋愛映画のつもりで見ているから,徐々に不思議な出来事がすべり込んでくると「お,お,もしかしてこれそういう話なの」と印象が変わる。パンドラの神話はほとんど表には出てこないけど,さまよえるオランダ人の伝説はそのままストーリーにつながってくる。不老不死で何百年も海をさまよい続けた男がついに念願の安息,すなわち死を得るためにはパンドラという希有の女に出会うことが必要だった。しかしその代償は……そんなお話だ。

パンドラ役のエヴァ・ガードナーはまことに美しい。いやこの美貌は確かに現代のスターにはなかなか求めがたいものだなあと実感できるよ。昔の女優さん独特の美しさであって,かつての映画スターが一般人とは別世界の存在だったことがよくわかる。窓辺に立って海を見つめるその姿,その表情だけでも,自分たちがいくら年を重ねてもあんなふうに大人にはなれないなと思い知らせてくれる。

それに映画全体の雰囲気が仄暗く,情熱や愛や嫉妬や殺意,そういったものを巻き込んで展開しながらも見ているこちらが感じるのは生々しい感情ではない。一歩下がって観劇しているような冷ややかさ,あるいは運命だから仕方がないといった諦観みたいなものだ。

イギリス映画であることが関係しているのかどうかは何とも言えないが,確かにこのテイストはハリウッド映画とは別物だと思う。

眠れる古き宝石

今改めて感じるのは,これが昔の映画でよかったなーということ。特に最近のメジャー作品の作りを思うと,これは古典的なるものが生きていた時代と場所で作られてこそという雰囲気が濃厚だ。若すぎて神話のない国アメリカではこの昏い倦んだ感じがなかなか再現しづらいのではと思うのだ。

たくさんの埋もれた映画の中にも大小さまざまな宝物が眠っている。出会ったときはやっぱりうれしい。この映画は普通にクラシックで不思議なラブストーリーという以上の特別深くてすごい代物ではないけど,そうした「おお,こんな映画があったのか」という喜びのようなものがあるのは確かだ。

娯楽映画にもいろいろあって,見終わってたちまち忘れてしまうものもあれば(それはそれで楽しいが)こうしてさざ波のような余韻を残すものもある。この後味の美味さみたいなものは観客の財産だし,なんだか自分のギャラリーの中に掘り出し物の美しい絵が一枚加わったような感じでもある。

セリフは格調高くて言い回しもちょっと演劇ふうだけど,それはこの神話的展開にはよく似合っている。パンドラとヨットの男の最初の出会いと最後のそれは繰り返しの演出がよくハマっているし,その二人の最後のやりとりの部分,運命を受け入れた者同士の静かな応酬がいいなと思う。まさに俳優の仕事だねえというシーンだから。

こうして書いているうちにも止まったままの砂時計のこととか罪深い闘牛士の運命とか,あるいは古びた手記の謎とか,いろんな仕掛けが思い出されて延々と語ってしまいそうになる。映画の中で考古学者の庭はたくさんの遺物で埋まっていたが,この映画もまた古い映画の歴史の中から発掘された不思議な遺物のような趣だ。

眠らせたままにしておくのはもったいない。