「渚にて」の静かなる終末を見よ

人は破滅が好き

この夏は(今は98年8月)破滅テーマの「ディープ・インパクト」がヒットしている。この作品に限らず,昔から破滅SFや第3次世界大戦ものはいくつも作られてきたし名作も少なからずある。このテーマには人々の心の琴線に触れる何かがあるのかもしれない。

かつて文学は人間を描くものだがSFは人類を描く,などと言われたことがあった。これが今も通用するフレーズであるか否かはともかく,大状況を描くのにSFが最適であることは間違いない。僕も昔,小松左京の「復活の日」を読んだときはそのすばらしさに打ちのめされたものだ。

破滅テーマというのは作者をして嫌でもシリアスにならざるを得ないものがあるようで,娯楽作品の王国ハリウッドにしても事情は同じのようである。SFはSFXを駆使したドンパチではない,ということを教えてくれる作品がこのジャンルには目白押しだ。

映画「渚にて」はそうした破滅テーマの名作のひとつである。

静かなる迫力

愚かにも核ミサイルを撃ち合って人類の大半が滅び去ったあと,唯一放射能汚染を免れた南半球オーストラリア。人々は自らの愚かさを呪いながら日々を過ごしている。しかし,死の灰は確実に迫りつつあり,半年後には人類の終末が訪れることを皆が知っていた……。

ありふれた設定のようだが,一流の演技陣によるドラマの厚みはすばらしい。しかも熱と爆風による瞬間的な破滅ではなく,静かに忍び寄る死の灰による緩やかな滅びである。世界のどこに逃げても来年の今日を迎えることはできないのである。沈黙の死神におおわれた人々の苦悩と激情が胸を打つ。

主演のグレゴリー・ペック,エヴァ・ガードナーの大人のカップルがいい。その役が背負っている人生のキャリアみたいなものをちゃんと出せるというのは俳優として当然求められることかもしれないが,彼らほどのクラスになるとやはり深みが違う。

派手なアクションや劇的なドラマがあるわけではない。地味な映画である。だが,それ故にこそ未来のない恋人たちの悲痛な想いが伝わってくるのである。

明日がないということは

この映画は一種の群像劇でもあって,やがて来る最後の日を前にいろいろな登場人物が人生最後のドラマに直面していく姿が悲しい。想像されるようなけだものじみた暴動やらんちき騒ぎは描かれず,人々は様々な思いを抱いたまま静かに滅びていく。静かである。それがかえって絶望の深さを突きつけるのだ。

たとえば物語の冒頭,若いカップルの朝の様子が描かれる。彼らの間には生まれたばかりの赤ん坊がいる。健康な赤ん坊。それでも彼(彼女?)には未来がないのだ。この幸せそうな光景がどれほど残酷であるか,観客はやがて否応なく思い知らされることになる……。

こう書いてくると暗く悲惨なだけの物語のように思えるかもしれないが,映画そのものは大人のラブ・ストーリーと言ってもいいような感じである。限りある日々をみながどれだけ懸命に生きたか,その輝きが悲しくも美しい。ダンスの神様フレッド・アステアの俳優としてのすばらしさや「サイコ」以前のアンソニー・パーキンスのシャープな横顔も見逃せない。

人々は故郷に還る

映画後半では死に絶えたはずのアメリカ合衆国から解読不能の謎の通信が入り,その謎を追って主人公たちは潜水艦で海を渡る,というミステリアスな展開となる。ゴーストタウンと化したサンフランシスコで彼らが目撃した真相というのが実に皮肉でよい。未見の方は是非ともビデオで確認されたし。

ところで,この映画では「どうせ死ぬなら故郷で死にたい」という人間が多く登場する。絶対に避けられぬ死が迫ってくるとなると人はみなそう思うのかもしれないが,冷血な僕にはこの感情はいまいち共感しがたい(理解はできるよ)。故郷……故国というのはそういうものなのかな。

この映画の舞台は1964年だ。製作は59年。40年経っても人類の愚かしさは変わっていないようだ。核兵器の恐怖に鈍感な人間は減るどころか増え続けている。この映画の静かな終末が訴えるものはますます重くなっていると思う。