「盲獣」と成人映画のかおり

気合い入ってます

映画の好みは人それぞれとはいうものの,洋画しか眼中にないというのはやはりさびしい。穏やかだったり急流だったり,あるいは淀んだり渦があって迷宮につながっていたりもするが,邦画の歴史もまた宝の山なのだ。

僕の乏しいキャリアではあまりえらそうなことは言えないが,時々「こんな作品があったのか!」とうれしい驚きに見舞われることがある。それこそ先輩方には「何を今さら」と笑われそうだが,ちょっとストライクゾーンを拡げればそうした出会いがあちこちに転がっているのである。それも豪速球ばかりではない。とびきりの変化球もあり,なのだ。

69年の大映作品「盲獣」はそんな変化球,いや魔球に近い必見の1作である。

登場人物はたった3人。盲目の自称彫刻家,その母親,そして彼らによって監禁されたモデルの女。巨大な女体オブジェで埋め尽くされたアトリエで展開される異様な性と愛のドラマ……これが映画「盲獣」の世界である。

今風に言えば妄想どくどくの"濃い"世界であり,生半可なことでは描ききれないことは容易に想像できるだろう。とにかく「気合い入ってんなあ〜」と感嘆する濃密な芝居で,84分でも満腹になること請けあいだ。時としてアイドルの素人芝居を微笑ましく思う寛大なあなたでも,まともに芝居ができるってのはいいねえ,とあらためて感じ入るに違いない。

禁断の香り

この作品はいわゆる「成人映画」である。成人映画という表記に郷愁を感じるか否かは別として,現在のR−18指定というそっけないレッテルにはない独特のもやもやした響きを感じることは確かだろう。

成人映画イコール必ずしもポルノ映画というわけではないのだが,今思うと中年のこの歳までろくに見ていない。同じ大映でも「ガメラ」だの「大魔神」だのに興奮していた無邪気なお子さまだったせいか,同時代のオトナの映画の禁断の香りなんてものとは無縁の路線で育ってしまったらしい。残念なことをしたものだ。

むろん今でもビデオでいろいろ見ることはできるが,時代の空気や匂いまではなかなか漂ってこない。リアルタイムでがんがん見てきた先輩方がうらやましい。

この「盲獣」は先にも書いたようにキャストは3人だけ。船越英二,千石規子,そして緑魔子である。誰がどの役かは言うまでもないね。乱歩の原作を読んでいないので,これがどの程度乱歩的なのかそれとも監督や脚本のカラーなのかわからないが,異様な力作であることは間違いない。

カルト作に相応しい濃厚な雰囲気,まさに画面からむんむんと漂ってくるようなこのアングラな香りがいい。成熟した大人の,いささか妖しくて退廃した娯楽としての成人映画,とでも言おうか。

緑魔子の妖しさに酔う

拉致され監禁されるモデルの女を演じている緑魔子,こうまでこの作品世界にぴったりの人がいたことにまず驚いてしまう。テレビドラマのちょっと可愛い小悪魔的な役などは記憶にあるのだが,ここでの演技の迫力は半端ではない。この異様な設定や舞台に見事にはまる女優さんがいたのだからやはりかつての邦画界の厚みは馬鹿にできない。

ここで彼女が体現するエロティシズムや妄想は,想像力皆無のポルノ映画やエッチビデオなんぞには100年かかっても醸し出せない類のもので,現在の女優さんにはまず望み得ないしろものだと思う。今いったい誰がこの役をあれほどのテンションで演れるだろう?

冒頭の,写真展に並んだ彼女のヌード写真からして思わず「うわ,これ欲しい」と感じるインパクトがあるのだが,たとえば今あれをカレンダーとして復刻したらたいへんな人気を呼ぶだろう。彼女のエロティシズムとモノクロ写真のマッチングがたいそう蠱惑的なのだ。あれは実在の写真集のもので古本市場ではまだ流通しているらしいが……欲しいなあ。

そういえば,観ているうちによく似た女をひとりだけ思い出した。その髪型,その顔,その眼,そして危険なまでにエロティックな肢体など,造形的には「哀しみのベラドンナ」のヒロイン,あのベラドンナが実体化したようなキャラクターなのだ。日本でベラドンナを生身で演れる女優がいるとすれば,この頃の緑魔子だけかもしれない,などとちょっぴり妄想してしまった。

ベラドンナと緑魔子。なるほど,その名に魔の一文字を持つ女優さんだけのことはある,とひとり勝手に納得しているところである。

相手もただもんじゃない

その緑魔子を監禁する盲目の自称彫刻家。僕はこの映画を観て船越英二という人に対するイメージが変わった。こんなにもリキの入った演技派だったとはねえ。

この数年前に「ガメラ」でのほほんとした(こちらにはそう見える)科学者役だった人,後に人気テレビドラマ「時間ですよ」でやはりのほほんとした銭湯の主人をやってた人……僕の船越英二のイメージは「のほほん」そのものだったので,「サイコ」や「コレクター」にも負けないこの異常な男の芝居っぷりには心底感嘆してしまった。

巨大な女体オブジェの上で緑魔子とふたり,裸でのたうつ姿に演技者としての並々ならぬやる気を見せられた気がしたのだ。

その母親役の千石規子もまたお見事。息子への盲愛と執着,若い女への嫉妬といった淀んだ気配の演技がご立派のひと言で,こちらはたった3人のキャストが鬼気迫る演技でぶつかるその"気"に引き込まれてしまう。役者は演技ができてこその役者であるということを幾度目かの実感として思い知るのである。

それにあのセット。あの人体オブジェで埋まったアトリエの設定もすごいが,ヒロインがその一部になっているシュールさがまた異様に妖しくていい。巨大な乳房や腰や膝の上を逃げ回る女とそれを追いかける盲目の男。まさに昭和の時代の倒錯と耽美である。

冒頭から画面に見入ってしまうので,演出や音楽についてあれこれ感じるのは見終わった後になってからだが,たとえばラストのあの場面で彫刻の腕や脚が落ちる描き方など「むむ……うまい」と思ってしまう。現代ではアレを生々しくやってしまう誘惑に勝てる演出家は少ないだろう。映画監督にとって克己心という言葉は死語ではないのである。未見の方はビデオでも借りてきてご確認あれ。

こういう世界は男……この映画の作り手……の側から見た妄想そのものかもしれないが,当時の映画人たちの仕事に向かう気迫みたいなものがぶんぶん発散されているのは確かである。歯ごたえ十分のこの「ひゃーやるねえ」という感じが快感だ。

さあ,部屋の灯りを落としてじっくり見分されたし。その価値はある。