「月下の恋」英国式幽霊譚の趣にひたる

オトナの風情です

たぶん過去のどの時代よりも"作品より商品"というポリシーがはっきりしているのが現在のハリウッド映画。もちろん僕もさんざん楽しませてもらっているし,そのビジネスとしての開き直り方には清々しささえ感じるほどだが,やはり映画全般がそれでは満足できない。ちっとは風情ってもんがわかる年になると尚更だ。

雰囲気とかたたずまいとか香りとか品位とか格調とか……いたってアナログ的で即商売には結びつかないそういった"趣(おもむき)"も長い観客人生には必要だ。

95年のイギリス映画「月下の恋」は,クラシックで折り目正しい,英国式幽霊譚とでも言うべき美学に満ちた逸品である。大人の怪談はこうでなきゃと感じ入るそこはかとない怖さが漂うゴースト・ストーリーなのだ。

何が良いといって,その静かで落ち着いた,端正な美しさが心地よい。

見終わってうーむと感じるのは,他のヨーロッパ諸国よりは物質的だが,アメリカにはない格式や伝統の香りもある,そういった英国のカラーみたいなものだ。この味はアメリカ産の文化ではなかなか得られない。ハリウッドならこの設定から「ポルターガイスト」ができるかもしれないが,欧州の作法では幽霊屋敷のお話もこんな抑えた"綺談"として生まれてくるのだ。

美意識に嘆ぜよ

幽霊屋敷の美学などというものがあるかどうかは別として,やはりこの映画の映像の美しさやそれを支える美意識みたいなものは格別だ。雰囲気,といった漠然としてありふれた表現でしかとらえられないかもしれないが,よかねー,美しかねー,といった内心の声が聞こえてくるようなひとときがここにはある。

主人公は幽霊話のインチキを暴き,人々を迷妄から解き放とうとしている心理学者だが,彼の下に届いた依頼状に従ってやってきた古い屋敷で本物の怪奇に遭遇する。屋敷に住む奇矯な兄妹たちと陰気な老女,果たして本当に幽霊はここにいるのか……。

という展開なわけだが,もちろんこんな書き方では風情もへったくれもありゃしない。主人公に近付く若く美しい妹,どことなく病んだ気配を漂わせる兄たち,怯える老女,そして屋敷そのものがはらむ謎の雰囲気が月明かりの美しい幻想とともに描かれる。そのしんとした展開の,じわじわと深みにはまっていく感じが何とも見事だ。

検索でここにたどりついて今これを読んでいる人は,たぶんもう本作をご覧になっているだろうからこの感じはわかっていただけるだろうが,未見の人にはぜひその目でじっくりと見分してほしい。ああ,こういうのも映画を見る楽しみだなあ,と実感できること請け合いだ。

真の主役は

それにしても舞台となる屋敷(エドブルック・ハウス)のたたずまい,それを描き出すカメラの仕事ぶりはすばらしいのひと言で,この屋敷自体がもう一方の主役なのだというオーラが漂っている。撮影時の事情など知らないが,よくぞこんなところを見つけだしてきたものだと感心してしまう。

あるいはマット・アートと組み合わせて作り出した文字どおりの幻影なのかもしれないが,この屋敷のビジュアルには描き手の美意識が満ちている。庭の四阿(あずまや)の方から屋敷を撮した夜のシーンが出てくるが,まさに絵画,それも怪異を秘めた美しさである。この景色こそは西欧ゴシックの世界だけの絵柄であろう。

また「月下の恋」と言いつつ夜のシーンはそれほど多くはないのだが,この屋敷は昼間のビジョンも独特の怖さを持っている。きっと何かが起こる,そんな予感が館の屋根や窓や壁や煙突から吹きつけてくるような"姿"である。

たとえば,映画後半,主人公が謎の少女の姿を目撃してその後を追うシーンがある。暗い絵画のような屋敷の前に広がる広大な緑の庭を,ひらひらと舞う白い服の女の子が足早に歩いてくる……昼間のシーンなのに不吉な美に満ち満ちているではないか。

こういう絵が撮れたら監督稼業もさぞ楽しかろうと思うな。

あえて手を伸ばさず

実は今回久々にLD版を引っぱり出して再見したのだが,ずいぶんあちこち忘れていて「好きな映画でも記憶はけっこう不確かなもんなんだな」と実感した。その分新鮮な面白さもあってその勢いでこれを書いているわけだが,あらためてジャケットを見るとジャケットどころか帯の惹句で既にネタバレしてるじゃんと苦笑してしまった。

まあ,原題が HAUNTED だからもうそこで(ついでに予告編で)幽霊の正体とかの謎は知れてしまうんだけど,この映画はちりちりと肌を伝ってくるような雰囲気が魅力なので安心して英国式幽霊夜話を堪能できるはずだ。

でも,すべてを見せてしまいたいという演出家の欲望全開の米国式娯楽映画とは一線を画したこのストイックな作り……ハリウッド映画を楽しんでいるときには全然そんなこと考えないくせに,こういう作品に遭遇すると「やっぱ演出家は貪ってはいかんなあ」などとほざいている自分に笑ってしまう。

けれど見ている側だって同じだ。

たとえばヒロインのケイト・ベッキンセールのヌードが吹き替えではないかという話があって,ご丁寧にコマ送りで確かめました,なんていう人もいるんだけど,なんでそこでリモコンから手を離さないかな,と僕は思う。

確かめようと思えば確かめられるけどあえて確かめずにおく……せっかくの蠱を自分から破るような無粋なマネを遠ざけたところにこの映画の快楽はあるのだから。