「ガメラ3」の世紀末を堪能する

ONE AND ONLY

既にファーストランを終え,2番館での上映も残りわずか(これを書いているのは99年4月下旬)となった「ガメラ3/邪神覚醒」だが,完全にリピーターと化した僕は何度も劇場へ足を運んでいる。こんなに劇場に通い詰めたのは何年ぶりだろう。このページでは原則としてビデオ化された作品を扱うことにしているのだが,これはやはり今語らずしていつ語るのだ?という衝動を禁じ得ない作品だ。

正直なところ,何がここまで自分を引きつけてやまないのか理詰めの分析はできないのだが,ひとつ言えるのはこの作品が例を見ないほど濃密な世紀末ロマンの気配をまとっているということだ。あるいは黙示録的と言ってもいい。子供のころリアルタイムで読んでいたコミック版「幻魔大戦」の異様な興奮を思い出す。そういえば衝撃的なラストシーンのイメージにも近いものがある。

ともかく,見れば見るほど傑出した作品だ。もしかするともう2度とこんな映画は現れないかもしれない,という予感すら覚える。特別な作品というのは制作者たちの思惑をも越えて,何か玄妙なタイミングの下に「生まれてしまう」ものなのだ。故に意図して再現はできない。

G3の初期シナリオではガメラの正体に関してONLY ONE……唯一無二の存在だと語られているが,この映画自体がまさにそうではないか。そんな気がするのである。これ以上のスケール,これ以上の凄い映像,これ以上の迫力,それらはいずれ邦画にも現れるかもしれないが,それでもこの作品は孤高の傑作として揺るぎもせずに語られ続けるだろう。言ってみれば蔵する"マナ"の量がケタ違いなのである。

さよなら大きなお友だち

面白いことに,いろんなBBSやその他の媒体でG3評を見ていると,自称特撮ファン,怪獣映画ファンという人たちの方が厳しい点をつけている。対してたまたま宣伝につられて見に行った(普段は怪獣ものなどろくに見ないという)観客には「予想以上に面白かった」という素直な賛辞が多い。

で,モチはモチ屋というくらいで特撮・怪獣もののファンたちの方が深く見て厳しいコメントをしているかというとこれが全然そうではない。むしろその逆だ。唖然とするほど幼稚で情けない発言が多く,正直驚いてしまった。普段からなにがしかの優越感とともに自らのうんちくを戦わせている連中の,これが実力なのか。

もっと怪獣同士が戦うところが見たかった。ラストはきちんと決着つけてほしい。自衛隊の出番が物足りない。何万人も死んでいるのに浅黄はよく「私はガメラを信じます」などと言えるもんだ。ストーリーが消化不良である。十握剣が何の威力もないのは拍子抜け。エヴァにそっくり。話があちこち飛んでわかりにくい等々。いやはや。

一般の映画ファンが怪獣映画に向ける偏見に反発しているくせに,その怪獣映画が怪獣映画を越えようとするともうついていけないのである。あげくに何を望むかというと,自分たちの見たい絵を羅列しただけの映画である。何のことはない,うんちくが増えただけで小さいお友だちと同じだ。

ちょっとエヴァっぽい絵があるともうそれだけですべてを語ってしまおうとするなど笑止。比較対象をエヴァくらいしか知らないことを自ら暴露しているようなものである。話が分かりにくいだって?この程度のプロットの複雑さでわかりにくいなんて言ってた日にゃ古今の名作話題作の半分も楽しめないぞ。ああ,どうせ見てないのか。

十握剣(この字でよかったかな?)がパーッと光を放って魔法のごとくイリスにダメージを与えたら全然別の世界観の物語になってしまう。伝説の剣は光って万能の力を示す,としか発想できないのは想像力の貧しさを証明しているようなものだ。力というものはもっと霊妙な,一見して力が働いたとは気がつかないような顕れ方をすることもあるのだ。パワーで圧倒して相手を粉砕したい,という欲望に毒されている人間には物足りないだろうが。

G3は彼らが映画の観客として甚だしく未熟であることを暴いてしまったのである。

見えない部分も面白い

映画の展開には当然,省略もあれば誇張もある。例えば時間。作中の時間経過と観客の時間経過をあわせた特殊な演出もあるが,通常は画面から退場したキャラクターも見えないところでそれなりに動いている。描かれなくても画面に登場しているときのちょっとしたセリフや演出でそれが想像できるようなら演出家は良い仕事をしているわけだ。

G3の序盤,長峰はホームレスの大迫と再会する。一度は人違いと否定されるが,渋谷壊滅後,奈良へ向かう前夜,再び彼女は大迫の前に立つ。

このときの彼女のちょっと怒ったような表情が何ともいえず良い。以下は僕の勝手な妄想だが,おそらく彼女は最初に渋谷で会ったときに彼が大迫であることをほとんど直感で知ったと思う。彼は否定したし,彼女も追求はしなかったが,目を伏せ不自然なほどきちんとした標準語での受け答えは逆に印象に残ったのではないか。確信はなくともそうではないか?との思いがあったとしても不思議はない。

あれが大迫ならもう1度訪ねるべきだろうか,それともワケアリのようだったからこのままそっとしておいた方がいいのか,だいたいなぜあの大迫があんな姿に……といろいろ考えただろうことは想像に難くない。

そしてあの災厄だ。あの惨状を目の当たりにし,ギャオスらしき生物の探索に出発することが決まったとき,彼女の中にどんな思いが去来したかはわからない。しかし大迫を探しに行かなければ,と彼女を突き動かす衝動があったのだ。彼は無事だろうか,あの惨事の犠牲になったのではないか,よしんば難を逃れたにせよもう壊滅した渋谷にはいないかもしれない。そんな彼女の焦慮にも似た気持ちと再会できた安堵がないまぜになったのがあのちょっと怒ったような表情だ。そう僕は勝手に思っている。

な〜んてことが省略されててもちゃんと想像しうる演出になっている。これは観客の楽しみではあるが,逆にそういうところまで描けというのは無粋というものだ。見えない部分を見るための手だてはいたるところに施されているのだから。

G3に世紀末映画賞を

いずれLDでも出たらじっくりディテイルを堪能したいと思っているが,真に世紀末に所有するにこれほどふさわしいソフトは他にないだろう。かつての終末ブームの時にさえお目にかかったことのない色濃い終末観とその中で展開される異形の愛憎。そして大破壊。G4以後があろうがなかろうが,僕の映画体験の中で忘れがたい1本になることは間違いないと確信している。

もし世紀末映画賞などというタイトルがあるならぜひG3にその栄誉を授けたいものだ。

小さな癒しと怪鳥が乱舞する不吉な未来。千年の都を焼き尽くす炎の中で完結した比良坂綾奈の愛と憎しみは,このシリーズの幕引きにふさわしいものであった。真にこの映画のヒロインというべき彼女については,いずれ稿を改めて考えてみたい。