「カジノロワイヤル」で夢の60年代に憧れる

本音っていいぞ

時代が進むにつれ人々の権利意識が発達してくると映画にしろ小説にしろ,あるいはその他のジャンルにしても表現上いろいろと気をつけなければいけなくなった。頭の中にある間はともかく,ひとたび公開するとなると右見て左見てもう一度右を見て「やっぱりやめとこう」というケースがきっと少なくないと思う。

問題意識の向上はよいことかもしれないが,表現上のタブーはどんどん増えているというのが現状だ。昔からの関係者はやりにくくなったなあとぼやいているんじゃないかな。

だから昔の映画(どのくらいを昔と言うかは諸説あるだろうが)を見るとホッとする時がある。出来の良し悪し以前にまずその自由度が心地よい。今ではたちまち厳しく糾弾されそうな表現がシャレで済んでいたってことが何よりうらやましい。シャレで済んでいたってことはみんなが大人の度量を持っていたということだ。そこに憧れてしまうのである。

いちばん端的なのが女性の扱い。現代の基準で言えば昔の映画の大半は女性軽視あるいは蔑視と言われてしまいそうだが,僕は少なくともそれを嫌だなと思ったことはない。それが男の目というものだ。中年男であるところの僕の正直な感想だが,ここでは本音と建前を使い分ける気はないのでご不快に思われた方にはごめんなさいと言う他はない。

そんなわけでだいぶ強引な前フリになってしまったが「カジノロワイヤル」のような映画は大好きだ。女を色気「だけ」の生き物としか見ていないようなお話ではあるけれども「笑って許してよ」と言いたくなる世界だし,紳士淑女がこういう映画をともに楽しんでいるような世界こそ僕の生きたい世界なのだ。おお,大げさ〜。

そもそもクレジットからして

ご覧になった方には言うまでもないことだがこの映画,タイトルにこそ冠してないけど実は007映画である。シリーズ生みの親であるイアン・フレミングの007第1作を原作としているのだから由緒正しい血筋なのだが,映画としてはハチャメチャな007パロディの番外編だ。

今は引退して悠々自適のジェームズ・ボンド(サーの称号付きだ)の元へ各国情報機関のお偉方たちが訪れる。各国のスパイたちが相次いで消される事件が続発,しかも敵の尻尾はつかめないということで引退したボンド卿に泣きついてきたわけだ。渋々現役復帰した元祖ジェームズ・ボンドはたくさんの美女たちに囲まれながら事件解決に乗り出すが……というお話。

この元祖ボンド氏,もういい歳なんだけど実力抜群で余裕綽々,しかも女嫌いなんだね。女嫌いというか優しくて紳士的なんだけど色気に惑うことがない。彼の跡を継いだやたら女とできまくって派手に浮き名を流している二代目を嘆くところがおかしい。もちろん跡継ぎってのは007シリーズの方のあの人のこと。元祖ボンド役はデビッド・ニーブンなのでまさにはまり役だ。

さて007映画と言えば毎回タイトルバックで意味もなく裸の女性がくねくねと踊っている。あれがないと007とは言えないよなあ,えへへへというお約束のシーンだけど僕もあそこがいつも楽しみ。エッチ過ぎずといって手も抜かずという絶妙なこだわり具合がいいんだけど,この映画でもその精神?は生きている。

本来の007と違ってこちらは女体のシルエットではない。クレジットの頭文字部分をそれぞれゴージャスかつちょびっとエッチな意匠のアニメーションとして展開してくれるのだ。これが実によく出来ていてキャストの名前を読むよりデザインの方に目がいってしまう。バストとヒップを強調した昔の週刊誌の大人向け4コママンガに出てくるような感じかな。

本当にこの部分よく出来ていて思わずリピートしてしまうくらいだ。いいねえこの余裕。

いいのかこんな豪華な顔ぶれで

何度も言うようだがこの映画は007シリーズのパロディであり「オースティン・パワーズ」を見ている人ならこれがそのルーツだってことはすぐにわかるんじゃないかな。決してバカ映画という呼び方をしないように。見る前から見方を限定してしまうようなレッテルは使いたくないのだ。破天荒でハチャメチャでお気楽でちょっと艶笑コメディタッチで大人の余裕ありありのぜいたく。言っておくが見た後には何も残らないよ。それがいいんだ。

今ではなかなか作らせてもらえないタイプの映画かもしれない。人によっては珍品とも怪作とも言われそうだが,これだけのリソースをつぎ込んでこの支離滅裂な仕上がりってのが楽しい。ちょっと話が複雑になると「ストーリーがわからん」と言い出す修行不足のお客さんにはさぞや辛い映画かもしれないが,うひひな仕掛け満載の悪ふざけ大会と思って楽しめる人には極上の132分じゃないかな。

だいたいこの顔ぶれがデラックスでいいよねえ。メインからちょい役までよくまあこんな映画に(と言ったら失礼か)出てくれたもんだ。1967年の作品なのでこの顔ぶれの当時のステイタスと2005年のステイタスは当然違うだろうけどやっぱり「げ,この人が!」という驚きと喜びはある。オーソン・ウェルズなんて今じゃ神格化されてるけどこういう俗な娯楽作品にも出てたんだと知るとちょっとびっくりする。

ウディ・アレンだってもうだいぶ前から都会派の才能の代表みたいな存在だけど,ここでは世界を美女と自分より背の低い男だけの世の中にしてしまおうという女性&身長コンプレックスの情けない男を楽しそうに演っている。

デボラ・カーといったら僕には真っ先に「王様と私」が思い浮かぶ正当派クラシック美女のひとりのはずだけど,これまたお色気年増工作員みたいな役なのでちょっとイメージ修正しなくちゃとうれしくなってしまった。ジャクリーン・ビセットなんてどこに出てきたんだろう。やたらとたくさん美女が出るのでもう見分けがつかないよ。えっ,ジャン・ポール・ベルモンド?どこに〜?

バロディがくすぐったい

007のパロディと言ってもシリーズ全部に目を通しておく必要はない。1967年の作品だからね。でも007は最初の数作でほとんどのパターンは確立されているのでそれで十分なのだ。この映画を見ていると結局何十年たっても007のイメージというのはゴールドフィンガーやドクター・ノオなんだってことがよくわかる。

だから終盤のドタバタの中にそれらがちりばめられているのを発見するとひとりにやにやしてしまう。敵のアジトで裸で縛られていた,というかベルトで固定されていたボンドガールのお姉ちゃん(ダリア・ラヴィ)にしてもそのエッチな姿よりあの拘束ベルトの方でにんまりという具合。

そしてゴールドフィンガーの象徴とも言うべき裸の金粉美女までちゃんと出てきた時には思わずコマ送りにしてしまったよ。だってほんの1秒あるかどうかってくらい一瞬だったからね。のほほんとした気分で見ていたのに一気に集中力が舞い戻ってきた。スケベ心は何にもまして強力ってことだ。

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こうした映画はせこく作ると目も当てられない。ケチケチすんなよ,パーッとお金使ってしまえという作り方をしてこそ花も実もあるってもんだ。花というより華かな。見る方だってそう。今だけは華やかな浪費を楽しむというスタンスが正解だと思う。これはそんなゆとりある心を持った人たちのための馬鹿騒ぎの一幕なのだ。

こうして書いているとつい懐古趣味になってしまいそうなんだが,やはりこの60年代の香りってうらやましいなと感じる。エンド・クレジットの最後のひとコマまで目を離さないように楽しみたい。ちゃんとそこまで仕掛けがあるのだから。