「魅せられて四月」のおだやかな魔法

美味なるスープのごとし

見た直後はとても楽しかったという覚えがあるのに,日がたつにつれて急速に記憶が薄れていく映画がある。あのときのあの感動は何だったんだ?と訝しい気持ちになったりするわけだが,逆に,初めは「まあまあ」とか「悪くない」という程度の印象だったのにいつまでたっても心の片隅に残っているというケースもある。

いくら時間がたっても心の中で一定以上には小さくならないのである。何がそんなに印象的だったっけ?とこれまた不思議に思うのだが,たいていの場合,はっきりこれだという答えは見つからない。実はこれ,映画だけの話じゃなくて小説や絵画やその他のジャンルでもありがちなことなのだ。

91年のイギリス映画「魅せられて四月」は僕にとってそんな1本である。

以前LDの中古セールでふと手が止まってそのまま買ったものだが,見終わったときも「ふうん,穏やかでなかなかいいじゃん」という,まあ言ってみれば出費に見合うほどほどの印象だった。

大感動やわくわくする感じがあるわけでもなく,と言ってストーリーがたいへん面白いとかキャラクターがすごく魅力的というのでもない。何かこう茫とした心地よさみたいなものが漂っているのだ。ボリュームのあるメインディッシュの食べ応えではなく,美味しいスープに感じるシアワセといったところか。

あるいは小粋な古典劇のごとし

冷たい雨に閉じこめられた20年代のロンドン。その空模様のごとく冷めた日常に悩む女ふたり。彼女たちは小さな広告を頼りにイタリアの古城サン・サルヴァトーレで過ごすひと月の休暇をやっとの思いで手に入れる。更にふたりのお仲間を誘い,到着したお城は陽光あふれる夢の場所だったが……。

日常の枷から解放された彼女たちは,とたんに日常に舞い戻ろうとする心や押し込めていた本心,密かな願いの正体といった自分自身の姿と向き合うことになる。

考えたいのか考えたくないのか,その狭間でたゆたう女たち。特に海辺に横たわったまま身じろぎもせず,自分の背中から頭を這っていったトカゲを見送る,いや見向きもしない女の,その目の表情が実によかったりする。

やがてやって来た男たち,彼女らの夫であったり古城の持ち主であったりするのだが,彼らと彼女らとの穏やかな和解あるいは出会いが全員を愛ある日々へと誘ってゆく。古典的な,あるいは演劇的な,ちょうど「真夏の夜の夢」が収束に向かうような閉じ方である。そういえば夜のシーンの満月はとても大きく,舞台の背景のそれのように彼らを照らしている。

登場人物誰もが愛を取り戻す……本来なら"癒し"の映画と言われそうな展開だが,この言葉はあまりにも常套句っぽくて今ひとつ好きではない。何か別の表現を探したいところだ。

ほのかなる魔法の証

人の容姿や雰囲気を形容するのに「年齢不詳」と表現することがあるが,この映画,人にたとえるならまさにそんな感じではないだろうか。10年前の作品(今は2001年秋)だが,100年前からやって来たと言われてもなるほど,とそのまま受け入れてしまいそうな趣があるのだ。

そう,あまり強力ではない魔法で生み出された小さな別天地の情景,とでも言おうか。

今回,ハイビジョン放送で久しぶりに見たのだが,当然と言うべきか手持ちのLDよりうんときれいだった。何千円も出したソフトより放送の方が美しいというのは悔しいなあ,などということはさておいて,改めてLDのジャケット表記を見ておや?と思ったことがある。

この作品は本来ステレオ音声なのだが,権利元が放送やビデオ用に作ったマスターはモノラルのものしかないと書かれている。しかし,昨夜見たハイビジョン版がモノラルだったかステレオだったかどうしても思い出せないのである。というよりそんなことは全く気にならなかったのだ。

観客を強引に引きずり込むパワフルな映画もあるが,この映画はいつの間にか自分もそこにとけ込んでいるような柔らかなフォースを持っているのである。音声がステレオか否かなんてことは気づきもしない,そんな見方をさせてくれる映画なのだ。ひとつひとつのエピソードの演出や構成はあるいは最善手ではないのかもしれないが,結局は皆が笑顔で歩み去るラストに小さな幸福感が漂う。

エンディングで描かれたあの杖の"変身"は途中に出てくる夾竹桃のエピソードを再現したものだが,この古城が彼女たちにとってささやかな魔法の地であったことの証として心地よい締めくくりだった。

緑の中にたたずむサン・サルヴァトーレ城(実際はブラウン城という名)はその昔,原作者がこの作品を執筆したお城なのだそうだ。よい話ではないか。