「錨を上げて」に夢の工場の作法を見よ

揺れる気持ち

正直に言うと,僕はハリウッド映画にはいつもアンビバレントな気持ちを捨てきれずにいる。うわあ,さすがにアメリカ映画は面白いやと拍手喝采する気分と,なんで連中はこんなに幼稚で単純なんだとトホホな気分になる時が交互にやってくるのだ。

どっちもその時の本音なのだが,落ち着いて考えてみるまでもなく,あの国は世界に冠たる映画大国なんだから作品だってピンからキリまであって当然だ。

しかし,どんな気分の時でもたちまち「おおーやっぱりアメリカ映画はいいねー」という方に振り子をぶんと揺らしてくれる作品群がある。ザッツ・エンタテインメント時代のミュージカル映画の数々だ。

理屈抜きで面白い,とはよく使われる表現だが,それを実現している作品が百花繚乱のごとく誕生しているこの当時は,やはりひとつの黄金時代だったのだろう。なんというかこちらの心も足取りも軽やかになる(ミュージカルだしね)ような映画がいくらでもあるのだ。もしDVDのお店の棚に当時のMGMミュージカルのコーナーがあるなら,そこから"目をつぶったまま"選んでも決して外れはないと思うぞ。

「錨を上げて」もそんな目一杯楽しい映画のひとつだ。今度あらためてこれが60年近くも前(今は2003年秋)の作品と知ってかなり驚いている。やはりあの国の映画の歴史は半端じゃない。どこまで深く厚いのだろうねえ。

シンプル&デラックス

お話はいたってシンプル。四日間の上陸許可をもらったふたりの水兵が有意義な休暇を過ごそうとやってきたハリウッドで歌手志願のヒロインをはさんで恋のドタバタをくりひろげる……。このたった数行で片付いてしまう筋書きを139分も引っ張って退屈させないのだから,たいしたものである。

実際,ご覧になればわかると思うが,ストーリーの本筋を描いたパートは全部かき集めてもせいぜい30〜40分というところだ。じゃあ残りは何だと言われそうだが,そこに黄金時代のミュージカル映画のサービスというかエネルギーの大半が詰まっているのだ。

それが作中にたっぷり盛り込まれた数々のパフォーマンスである。

歌やダンス,あるいはピアノやオーケストラの演奏といったシーンが延々と続いてしかもそれがストーリー上必要かというとそんなことは全然ない。話の展開からするとなくてもいっこうにかまわないシーンばかりである。にもかかわらずちっとも退屈しないのはこの様々なパターンで登場するパフォーマンスの部分が実にもう楽しくて飽きないからだ。

それらのシーンにはありとあらゆるアイデア,工夫,意匠,技術,センス,サービス精神などが投入されていて,逆にそれらのパートだけ集めても立派に楽しめるものができるはずだ。現にそういう試みが実現している。他ならぬ「ザッツ・エンタテインメント」である。

この「錨を上げて」単品でも話題にしたい名パフォーマンスがあちこちにあるのだから,ハリウッド・ミュージカル全体の遺産がいかに豊穣なものであったか,ファンのみならずもう一度目を向けてもらいたいくらいだ。

ジェリーのステップに注目!

その「ザッツ・エンタテインメント」でも紹介されていたが,この映画にはジーン・ケリーがトムとジェリーのジェリーと踊るシーンがある。なぜそういう展開になるのかは各自でご確認あれ。でもって「ザッツ……」では抜粋だったそのシーン,この映画で"フルコーラス"でじっくり見ると,予想以上に緻密にアニメートされていることがよくわかる。

ネズミというより明らかに猫の大きさだが,まあそのくらいのサイズでないと人間とのバランスがとれないよね。

大きなスクリーンで上映することを前提にしているわけだから当然といえば当然だが,ジーン・ケリーの立ち位置との前後あるいは左右の関係がきちんと描かれているし,合成もスムーズ。踊っているジェリーの足の動きがリアルで妙になまめかしいほどだ。丁寧な仕事である。

トムとジェリーには音楽とシンクロした抱腹絶倒のエピソードがいくつもあるが,このシーンは彼らの様々なキャリアの中でも名場面のひとつと言える出来映えだ。じっくり全長版を見ると特にそう感じる。元々はミッキーマウスとの共演を企画したが,ディズニーにあっさり断られた結果ジェリーの登場となったそうな。僕はこっちの方が断然うれしいな。

イタルビって誰?

ところでこの映画,フランク・シナトラとジーン・ケリーの主役ふたりにもましていいところをさらっていったのは意外な人物であった。

ヒロインのスーザンは歌手の卵で,超人気指揮者にしてピアニストのホセ・イタルビを尊敬している。何とかして彼のレッスンを受け自分も一流の歌手に,と願っているのだが,そのイタルビという御仁,実に"いい役"に描かれているのだ。芸術家肌で才能豊か,地位も名声もあり仕事は分刻みの売れっ子,それでいて心が広く,ぶしつけな若者にも怒らず女性には紳士的……。

これが嫌味でもなくあざとくもなく,最後にはさらっとヒロインに幸せをもたらしてくれるのである。実に美味しい役どころではないか。

で,エンド・クレジットを見ていたらホセ・イタルビ役は"Himself"と出てくる。あらら〜実在の人物だったんだ。本人が本人の役を演じる時にこう表記されるのだが,僕は不勉強にしてこの人のことは全然知らなかった。あの描き方からすると当時は本当に大物だったんだろうなあと思うが,日本のサイトではこの人に関する記述はあまり見つからない。

でも綴りがJose Iturbiなのでもしやと思ってそっちから調べてみると,思ったとおりイトゥルビとかイタービとかいろんな表記でヒットする。その筋では大変有名で僕が無知なだけってことなのかな。この映画では彼自身のパフォーマンスもたっぷり楽しめるぞ。

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シンプルな構造を豪華なパフォーマンスで飾ってハッピーな結末に持っていく。ハリウッド黄金期の作法みたいなものがよーくわかる楽しい一本である。寝っ転がって見てもいいんだけど,テレビの洋画劇場じゃ139分をノーカットでやってはくれないぞ。DVDは非常に廉価でお買い得だ。おすすめしておこう。