はじめての日本食


出発〜カナダ〜


  1994年6月8日私の旅は始まった。飛行機は大韓航空。ソウル経由バンクーバ ーに入る。いよいよだという期待と緊張、そして心細さのようなものが入り交じった 気持ちで、機内の小さな窓から福岡空港の展望デッキの方を見た。ほんの1カ月前か らつきあいがはじまったばかりの彼がそこから見送ってくれている。もちろん遠くて 見えない。今度いつ会えるのか、元気でこの地に戻ってこれるのはいつだろうか・・。


今まで50回位世界のあちこちを旅をした。でもせいぜい2週間で、長旅は初めて のこと。3〜4カ月はかかるだろうか。総予算60万。もちろんすべての交通費や宿 泊費を含んでである。
 米ドルと旅行小切手と予備のお金を含め70万円分を、お腹と腕と足に巻き付け、 荷物は小さめのリュック一つにまとめた。中身は着替え、寝袋、懐中電灯、薬、洗面 道具。そしてガイドブックのかわりに世界地図。出発前何度も広げて眺めたものであ る。
 カナダへ入る大韓航空の切符だけを日本で購入し、あとは陸でつながっているかぎ り、バスや列車をつかって進もうと思う。
 計画したのは、地球を東回りに廻ること。カナダを横断したら、ナイアガラ の滝からアメリカへ。ニューヨークならヨーロッパに入る格安チケットが見つかるだ ろう。それから列車でポルトガル。スペインから船でモロッコ。 アルジェリア、チュニジア、エジプトそして中近東。そしてトルコにも寄りたい。 東欧のどこかで、ロシアのビザを自力で取ろう。ロシア入ったらシベリア鉄道のキッ プを買い、モンゴルで途中下車・・。

私の頭の中は、陸路、陸路!とこだわっていた。理由は2つあった。
 バスや列車での移動はその国の庶民の生活に密着した存在であること、それに乗る ことで現地の人との出会いがきっとあるだろうこと。
 また、陸から国境を越えたいと思った。点で結ぶ旅でなくて、ずーと続いていく丸 い地球を感じる旅がしたかったのだ。  


 最初の国初夏のカナダは、どの町も気持ちいいところだった。
 バンクーバーでは、夢をもって大学に通う日本人の学生たちと出逢い、カルガリー ではギリシャ人ジョンと逢ったことで、ギリシャにも行ってみようと考えた。
 中部ウィニペグでは、台湾人ダニーたち5人と知り合った。彼らはアメリカのノー スダコダでパイロットになる勉強をしているという。日帰りで中華料理の材料を買い にやってきていた。
 そのダニーの提案で日本食レストランへ入った。私は外国での日本食は初体験で ある。店には、大きな招き猫、レジのそばにこいのぼりが立てられ、着物を着たカナ ダ人が迎えてくれた。ワンタッチ帯にはうちわがはさんである。男性ははっぴ姿であ る。
「あれは何?これは?」
実はダニーたちは、“日本と言えばスシ”という印象しかないらしい。
みんなからの質問に、かなり苦労しながら説明してると、しゃぶしゃぶの鍋と焼き肉 の鉄板が運ばれてきた。次に中身が盛られた大皿がふたつ。同じ材料であった。「た れはこれよ」と醤油ととうがらし味噌。焼き肉の方にもうどんがついていて、荒い網 型の鉄板で、落っこちそうである。焼き肉もしゃぶしゃぶも同じタレで頂くらしい。 同じ材料を、鉄板で焼き、鍋でゆで、私は本当の焼き肉としゃぶしゃぶはねえ・・・ と賢明に説明してしまっていた。彼らの記憶にこの日本食がインプットされるのを防 ぎたくなったのだ。
 でもみんなで食べる“日本食もどき”はとてもおいしかった。
 たくさん話し、大きな声で笑い、楽しい時間はアッという間に過ぎ、もう彼らは戻 る時間だ。
「これから君の旅は長いんだから・・」
そうダニーは言い、みんなで私の分をおごってくれた。そして
「くれぐれも気をつけて、そしてアメリカ大陸内に居るときは、なんか困ったことあ れば力になるから・・連絡して・・」と言った。
 いつかまた会えることを約束して・・。


●次はたいくつな大都会(アメリカ)です。

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