<あたしの気持ち>

6月30日の夕方、私は都電の東池袋四丁目を降りると、
最後の一本の煙草に火を点けて彼を呼び出した西口のカフェへ急いだ。
丁度一ヶ月前の日のことが脳裏に浮かぶ。
あの日の私は、今日と同じように東池袋四丁目で下車し、煙草に火を点け、同じ道を、同じカフェへ向かっていた。
でも心の色は全然違う。
これ程本気になる筈は無かった。
ホームページを見て、興味本位で送った、会いたい旨のメール。
あの日、只、楽しみでドキドキしながら歩いたこの道。
なのに今日は煙草も全然おいしくない。

日曜の午後故に騒がしく混雑した店内で、立って待っていてくれた彼を見つけた。
前日深夜のスタジオ練習で遅刻してしまったあたしは彼の顔を直視出来ず、俯いたまま
「ごめんね」
と言ってちょうど空いた席に二人で座った。
黙ったままのあたしに彼は話し掛けてくれる。
いつもの口調で、穏やかに。
でもあたしは相槌を打つことで精一杯だった。
別れる事が辛いなら、こんな話切り出さなければ良いだけの話だろう、と思う。
'一緒にいるだけで充分楽しいじゃないか?'
'落ち着けるじゃないか?'
'あたしの話を理解しようとしてくれるじゃないか?'
'彼もあたしの事を嫌いではない筈だろう?'
あたしはいつものように彼の髪や腕に触れてみる。
人前でそういう事をされるのが嫌いな彼は、
いつものように少し顔をしかめて怒ったように見せる。
いつもの下らないやりとり。
そしてやっぱり、あたしはこの人を好きなのだと思う。

「そういえば、今日の本題は何?夏休みの旅行どこ行こう系?」
彼が切り出す。
一気に頭が真っ白になった。
「うーん・・・寂しい系。」
どう答えていいか分からず、あたしは曖昧な返事を返す。

好きだった、やわらかい髪、
細い目、
少し高い声、
穏やかな口調。

あたしは終わりの言葉を告げた。
彼を責めるような言葉も吐いた。
彼に責められる要因なんてどこにも無いことくらい承知していた。
彼は嘘を吐かず、在りのままの自分であたしに接していてくれていた。
それが分かるからこそ、あたしは彼と別れる必要が有った。
恋愛に関わらず、彼とあたしの価値観は違いすぎた。
好きだという気持ちだけでは付き合えない。不理解のフラストレーションと激しい恋愛感情で自分の心が破綻するに違いなかった。彼の負担が大きくなるのは必然だった。

この時、彼の表情は'こんなこと何でもない'というような風に見えた。
時折彼はこの表情をする。
本当に'何でもない'と思っているのか、
ポーカーフェイスを作っているのか、あたしはいつも分からずにいる。
「じゃあ、出る?」
ひとしきりあたしの文句を聞いた後、沈黙の後に彼は言った。
あたしの文句に彼は怒りも、反論もしなかった。
静かに耳を傾ける彼に、あたしの激しい感情は行き場を失っていた。
あたしは、力が抜けて暫く立ち上がれずにいた。

駅までの道は長いのか短いのか分からなかった。
あたしは徐々に冷静さを取り戻して、全部終わった、ということを認識した。
彼の横顔に、あたしはもう一度だけ憎まれ口を叩いた。

改札で別れる時、彼は例のポーカーフェイスのまま軽い挨拶をくれた。
最後までその表情を崩す事の無かった彼にあたしは苦笑し、
「おつかれー」
と軽く返して別れた。


数日後戴いたメールを拝見して、本当にあなたと知り合えて、良かったと改めて思いました。
素敵な思い出と、素敵な文章をどうもありがとう。
    


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