輝国山人の韓国映画
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韓国映画の黎明期に寄与した代表的な映画人のひとり 1889年 11月7日 忠清南道 ノンサン(論山)郡 ソンドン(城東)面 ファジョン里 73番地で,パピョン ユン(尹)氏 シビョンの3男1女のうち2男 として出生 本名は,ユン・ギョジュン 1901年 キョンソン(京城)学堂(ソウル ミョンドン(明洞)の中国大使館 がある場所)中学部に入学し,新学問を習った。 1906年 日本の早稲田大学政治科 から東京高等商業学校へ転校した。 この時,文学と演劇に関心を持って研究した。 1910年 東京高等商業学校を卒業 日本演劇人シャオリゲ・ イチロウに師事 帰国後,官立スヒョン組合(商業銀行の前身)の理事代理として勤務 1911年 ポソン(宝城)専門学校(高麗大学の前身)の講師として在任 1912年 チョ・イルジェ,チョ・ジュンファンとともに,新派劇団<ムンスソ ン(文秀星>を設立し,演劇<ホトトギス>をウォンガク社の舞台に 上げるなど,新劇運動に参加した。 1913年 毎日新報 編集局長 1916年 <半島文芸社> 設立,<イェウォン(藝苑)> 創刊 劇団<イェソン(譽聲)座> 組織 1917年 ペンナム(白南)プロダクション 設立 1918年 キメ(金海)合成学校 校長 1919年 東亜日報社 入社 1922年 芸術協会所属 劇団<芸術座>に参加 ムン・スイル,イ・ウォルファなどを導いて<民衆劇団>を組織し,創 作劇<燈台守>を公演した。 1923年 <民衆劇団>の人物を導いて,逓信局の依頼を受けて,イ・ウォルファ 主演,クォン・イルチョン,ムン・スイル,ソン・ヘチョン,アン・グ ァンイク出演の<月下の誓い>を監督した。 この映画は,韓国最初の劇映画であり,ソウルで学校を終えて帰ってき て,チョンスン(イ・ウォルファ)と婚約した青年ヨンドゥン(クォン・ イルチョン)が,賭博と酒色で財産を使い果たすに至り,チョンスンの父 (ムン・スイル)が貯蓄したお金で,借金を返すという内容で,朝鮮総督 府逓信局が貯蓄啓蒙を目的に制作した官製普及映画 4月11日にキョンソン(京城)ホテルで国内各界要人を招請して試写会 を開いた。 1925年 これを契機に映画界に身を投じ,アン・ジョンファ,イ・ウォルファなど とともに,日本人ワン・ピリョル(王必烈)=高佐貫長がプサン(釜山) に設立した朝鮮キネマ社に入社 1925年 朝鮮キネマ社で,キム・ウヨンを主演にした<雲英(ウニョン)伝>の脚 色と監督を担当した。 この映画は,世宗大王の4番目の息子であるアンピョン(安平)大君(ユ ・スジュン)が寵愛した宮女ウニョン(キム・ウヨン)が,文章に優れた ソンビ,キム進士(アン・ジョンファ)を慕って醸し出す愛の悲劇を扱っ た劇映画 朝鮮キネマの研究生であったイ・ギョンソン,ナ・ウンギュ,ナムグン・ ウン,チュ・インギュなどを導いて朝鮮キネマ社を出て,ユン・ペンナム プロダクションを設立した。 この映画には,ナ・ウンギュが端役である駕籠屋役で出演している。 1925年 2月にナ・ウンギュとキム・ウヨンを主演にしたイ・ギョンソン監督の <沈清伝(シムチョンジョン)>を制作し,第2回作品として<開拓者> を準備したが,資金問題やイ・ギョンソン監督などのスタッフ離脱で事実 上7月で解体された。 1929年 東亜日報社が創刊10周年記念で制作したカン・ソギョン,イ・チュン主演 の<正義は勝つ>(1930)を監督し,その後,間歇的にシナリオなどを執筆 するが,初期のように活発な活動をできなかった。 1930年 キョンソン(京城)小劇場 創立同人 1931年 新劇団体 <劇芸術研究会> 創立同人 1933年 キョンソン(京城)放送局 文芸部 主任 1934年 満州のファブクに移住し,在満朝鮮農民文化向上協会 常務理事に就任 1937年 小説<海へ行く>を発表 1945年 解放とともに帰国 1946年 国民大学 理事 兼 教授 1950年 6.25韓国動乱(朝鮮戦争)が起きると従軍し,海軍中佐 公報室長を任官 1953年 ソラボル(徐羅伐)芸術学校 初代学長 1954年 芸術院 初代会員 1954年 9月29日 心臓病で死去 [最終更新] 2016-03-02