モノクロ映画の赤い煙

■天国と地獄■

1963年というと今から40年ほど前(今は2002年2月)で,東京オリンピックの前年,まだ新幹線は走っていない……そんな時代に生まれた黒澤明監督の極上エンタテインメントが「天国と地獄」である。

靴メーカーのやり手重役(三船敏郎)の息子が誘拐され身代金の要求がくる。しかし誘拐されたのは人違いで実は重役付き運転手の息子だった。破産覚悟で他人の子供のために大金を払うか否かの葛藤,警察の機敏で確実な活動,特急列車を舞台にした息詰まる身代金受け渡し,そして……。

面白いぞ〜。こういうのを見てしまうとテレビのサスペンスもののぬる〜い演出なんて見ちゃいられない。全盛期の黒澤明と比較すること自体とんでもない話だが,時は流れ,かつての邦画にこういう境地が存在したことを知らない人も多いのである。娯楽作品といえどもグレードの高いものを見て我が目を肥えさせなくてはね。

今見ると邦画の歴史が詰まったようなすごいキャストで,当たり前だがみんな若い。若くてキレのある顔がとても新鮮に感じるし,三船敏郎って男臭くていい役者さんだな,とあらためて実感できるだろう。これだけの顔ぶれをそろえられたら,そりゃー演出する方も楽しかろうと思う。当時の映画界の活気が想像できるな。こういうところに混じって仕事ができたら給料なんて要らねーぞって感じだ。

さて,この映画はシネスコのモノクロ作品なのだが,演出上ワンカットだけ色が着いているシーンがある。初めて見る人はあっと驚くに違いない有名なシーンである。

犯人が身代金を詰めたバッグを処分(焼却)するのだが,そのバッグは警察が仕掛けた特殊な薬品のせいで燃やすと目立つ赤い煙が出るようになっていたのだ。モノクロの画面の中でこの煙だけが赤く着色されて立ち上るので「おおっ」というインパクトがある。

今ならデジタル処理で簡単かつリアルに実現できたろうが,なにしろ40年前である。実際にどういう手法だったのか,解説を読んでも素人には今ひとつよくわからないのだが,撮影したカメラマン氏のコメントにはもっとうまくやりたかったという思いがあるようだ。

LDではサイド3チャプター18の20分57秒あたり。子供は「桃色の煙が出てるよ」と言い,仕掛けをした刑事は「燃やすと異様な牡丹色の煙が出ます」と言っているのだが,ボキャブラリー貧困な現代人には「牡丹色」と言われてもピンとこないのではないかな。

実は僕も牡丹色というのを後で事典で調べたことを告白しておく。牡丹の花をさっとイメージできる人間は40年前より確実に減っていると思うのだが,あなたはどうだろう。

警察があんなに個人をひいきしていいのか,なんてヤボなことは言うまい。あの時代あの世界には,被害者やその家族より犯人の人権を尊重するようなナンセンスな考え方はまだ登場していないのである。

天国と地獄 TLL 2401
発売元(株)東宝