千尋の襷掛け

■千と千尋の神隠し■

昔の邦画や和物趣味の映像を見ていると,自分も日本のことをよく知らない現代人(特に男)の典型だなあと感じることがある。和風の色や花や衣類に関するボキャブラリーがごっそり欠けてることを痛感してがっくりという具合。たとえば今,水干(すいかん)と聞いてパッとイメージがわく日本人の男性ってどのくらいいるんだろう?

水干というのは映画「千と千尋の神隠し」で千尋が働いていた湯屋の制服?として彼女たちが着ていたあの衣装である。僕は設定資料を見るまでそんな名前の着物があることすら知らなかった。情けないが,これが我が一般教養の実態だ。

それはともかくこの映画,DVDで楽しめるようになってますます好きになった。中年男がこういう世界に耽溺してていいのかという内心の声もあるにはあるが,たいそう面白いこと,気持ちいいことは事実である。宮崎駿監督は「もののけ姫」で言いたいこと言い尽くしてもう枯れた境地に行っちゃうのかと思っていたら,瑞々しいこのお話である。ちょっとびっくり。

まあ,瑞々しいというより一種官能的というか猥雑だよねえ。10歳の女の子が風俗営業の下働きになるような感じだもん。でも通俗と澄んだ幻想とが絶妙に混じり合って実に不思議な味を出している。この聖俗混沌とした異界の物語は一度きりの鑑賞ではもったいない。これもまたリピーターになって楽しむ映画なのだ。

さて,映画中盤,傷ついたハクを案じて千尋が湯婆婆の部屋へ忍び込むくだりがある。エレベーターが使えないので建物の外側から這い上がる大冒険になるわけだが,彼女は雨樋の上を走る危ない決断の直前,襷掛け(たすきがけ)で動きやすいように準備をする。ここはこのお話のターニング・ポイントではないだろうか。

グズでノロマな女の子が,実にきりりとした仕草と表情で積極的なヒロインに変わったのはこの瞬間だと思うのだ。

DVDではチャプター16の76分58秒。キッと前を見たまま右手でさらっと襷を垂らしたその立ち姿からしてもう千尋は変身してる。顔つきが違うよね。何年もやってるようなさばき方で襷を身体に回し,袴の裾を締めるその一連の動きには迷いがない。

しかし何度見ても彼女が異界で過ごしたのはたった4日間である。あんなトロい子がわずか3日目でこんな手慣れた感じで襷掛けができるようになるとはどう考えても無理がある。あるんだが……確かにここでもっとゆっくりと襷掛けしてたら自然ではあったかもしれないが,監督は「でもオレはこうしたいんだ」で押し通しちゃったんだろうなと思う。その方が気持ちいいと。ぬけぬけと「愛の力だな〜」とでも言ってるみたいだ。

突っ込みたい人の気持ちもわからんでもないが,僕はこのシーンがお気に入りである。時には世界観より優先させたいものがある,と受け取っておこう。

千と千尋の神隠し VWDZ8036
発売元(株)ブエナ ビスタ ホーム エンタテインメント