旅と人生(1)〜般若心経との出逢い〜


私のホームページを見た方から、こんなメールをいただきました。
<僕もいずれ世界一周をしようと思っています。27年間勤めた今の仕事をやめ、家族を捨てて、家、土地をすべて妻にあげて、離婚覚悟で計画しています。まだ誰にも言えません。・・・
会社、家族いろいろあって人生に疑問を感ずるこのごろです。旅に出て、何かを発見したいと思います。こんな考え方は甘いでしょうか・・(後略)>
 ドキッとしました。私自身、世界一周に出たきっかけは人間関係の挫折だったからです。

   当時29歳だった私は、なぜこんなことに、と思うばかりで、現実を認めることができずにいました。自分の生き方が間違っていたのではないかと、自分否定してしまうのです。当然、人と係わっていく自信が失われていきました。私も、旅に救いを求めていたのだと思います。
 そんな私の旅の始まりは、来る日も来る日も、穏やかで、いい人、いい出来事に恵まれました。でも次第にその順調さが、物足りなさに変わっていくのです。何が足りないのかはわからない。旅しているのに、旅が始まっていない、そんな焦り。私は“旅の始まり”を探していました。
 ここじゃない、ここじゃない、私はどんどん次の街へ次の街へと進んでいきました。でも、物足りなさを埋める出来事など起こらないのです。

   始まり探しをやめたのは、モロッコに入る頃からでした。すると、入国トラブルに始まって、連れていかれた絨毯屋で軟禁され、いつの間にか悪徳ガイドにだまされてる。長距離バスに乗れば、事故って山の中に9時間も立ち往生。でもそのバスで隣り合わせた女性と仲良くなり家に泊めてもらうのです。彼女の弟のウェディングを一緒に祝い、暑い夜は屋上で星を見ながら寝、言葉でない心の通い合いに涙をこぼしました。私は、そうして、今、その時その時に一生懸命になっていったのです。
 足りない何かは“困難”だったように思いました。困難があればこそ、越えてこそ、人の温もりが心にしみるのですね。

    あったかい思い出がたくさんできたあとは、チュニジアで病気に苦しみました。回復する体と逆に、心がどんどん弱くなってしまうんです。これから先、また、病気をするかもしれない恐さ。病気の原因を憶測しては、ますます臆病になっていく・・。
この時も、そんな私を立ち直らせてくれたのは、予想外の困難でした。ひとりだから、自分が立ち向かうしかないし、だから一生懸命にならざるを得ないんです。そして、克服したとき、こう思えました。病気なんてするときはする、先のことを心配しすぎても何もならないんだと。
 エジプトにいるときは日本語に対する飢えをひしひしと感じました。トルコでは、旅することへの慣れと無感動さ。楽しいけれどしんどい本音・・。そんな中、私はなぜ旅を続けるのだろう、これから私はどう生きたいのだろう、と問い始めました。
 その後、彼がギリシャへ来てくれることになります。その時にと私が頼んだのは、3冊の本。日本語であれば何でもいいと言いました。そして、買わずに、山のように持ってる本の中からでいい、と。
 彼が選んでくれた本は、人気作家のエッセイが2冊。そして般若心経の解説書でした。面白い選択だなーと思いつつ、一番先に、般若心経を読み始めるのです。

 すぐ、ひとつの言葉が心に響いてきました。
諸行無常<あらゆるものは移り変わること>。
人も、人間関係も、自分も、変わっていく、という天の摂理。
 私は、何を憂いていたのだろう、と思いました。順調でいい関係でいられた“過去”に、ずっとしがみついていた自分に気づきました。過去へ執着するあまり、その時その時を大切にしなかった自分が思い出されました。いろんなものを背負い込み、自分でがんじがらめになっていたのです。
 これまでのいろんなことが、私へのメッセージに思えてきました。そして、私は捨てることの大切さを痛感する出来事と出逢うのです。     (続く。次は1足の靴の話)  

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