「ちょっと待ってて、すぐ戻るから」
さやかは、そう言って部屋を出ていった。
何か違うな、と片桐は思った。いつものさやかとは、何かが違う。落ち着きがないというのか・・・
片桐は、薄暗い部屋を見回してみた。奥にテーブルがあった。周囲の散らかりようとは対照的に、その上はきれいに片づけられている。そしてその上に、無造作におかれたタオルが1枚。
彼はそこに、不気味な気配を感じずにはいられなかった。

テーブルの脇に立ち、タオルを手に取った片桐は、予想通りの結果に半分納得し、半分驚愕した。
どちらかといえば、やはり驚きの方が強かったかもしれない。
タオルの下には、液体の入ったビニール袋がおかれていたのだ。
「クロロホルム・・・」
ビニール袋に入ったその液体は、知る人が見れば一目瞭然の代物だった。
クロロホルムは即効性の麻酔薬で、医薬品として以外に、犯罪においてよく使用される。
これを嗅がせれば、数秒にして相手の意識を奪い去ることができるのだ。
そして驚いたことには、ビニール袋のその横に、小さな薬瓶がおかれていた。
赤色のラベルには、次のようなことが記してあった。

 <第1級危険薬剤>
 0.9%生理食塩水1000mlにつき、本品1錠を溶かして患者の動脈に注射する。
 絶対に飲用しないこと。生命を脅かす危険あり。
(さやかの奴・・・)
片桐の腕は震え、言葉は声にならなかった。
後ろでドアの開く音がした。
「亮くん、紅茶・・・ あっ?」
「さやか・・・ これで、何をするつもりだ」
片桐は振り返り、ビニール袋と薬瓶を突きつけた。
さやかは、しばらく黙り込んだ後、こう言った。
「見つかっちゃったか・・・」
彼女は、悲しい笑顔を見せた。この表情を見るのは、これで何回目だろう。初めて会ったあの日も、この笑顔だった。そして俺は、この悲しげな笑顔にひかれたのだ。
あれから12年。何が2人を引き離したのだろう。いったい何が、これほどまでに俺とさやかを引き離してしまったのだろう!
「やっぱり、俺を殺す気だったのか」
なぜか、片桐もほほえんでいた。心にわき起こる怒りが、逆になって現れたのだろう。
「ごめんなさい・・・でも」
「いいさ、俺も覚悟を決めようと思ってたところだ、どちらにしろ2、3日で自殺なり何なりしていただろう。ちょうどいい、さやかが殺してくれるなら、それで本望だ。俺は800人の命を奪い、6000人に怪我を負わせた犯罪者だ。死刑が妥当なところだよ」
一気に言葉が口をついて出てきた。途中で涙が出てきた。
2人はまた、黙りこくった。
紅茶だけが、静かに湯気を立て続けている。それ以外は、時間が止まっていた。
さやかが、やがてその沈黙を破り、片桐の方に近づいてきた。
自然と身構える片桐。
しかし、さやかはテーブルに紅茶の乗ったお盆を乗せただけで、それ以上何もしなかった。
「少し話があるの・・・聞いてくれない?」
「いいよ、聞いても。それが終わったら殺してくれるのか?」
さやかは、それには答えず話を始めた。
その話は、片桐にとって驚くべき、そして恐ろしい話であった。

「あのコンピュータ、暴走させたのは、わたしたちLCAだよ・・・」
「えっ?」
思わず片桐は聞き返した。まさか!
「信じられないとは思うけど、本当。 あの事件の2週間前に、化学資材を積んだロケットが金星に行ったでしょ、あれ、どこの会社のか、覚えてる?」
「LCA・・・そうか・・・」
「そう。あの中に入れといたの。ウィルスプログラムを・・・」
「でも、ロードミルの対ウィルス防御は完璧だったはず・・・ あれをくぐり抜けられるはずがない!」
「どうしてそんなことが言えるの?」
「だってあれは・・・俺の持ってるノートの論理クロックと同調しないプログラムは全く受け付けないようにしてあった。俺のノートを通していないプログラムは電子的に抹消されるように・・・それとも、抹消されないようなのを作ったとでもいうのか?」
「違うわ。確かにあのシステムはすばらしかった。どうしても電子抹消を回避できなかった」
「そうしたら、俺の部下がウィルスをつくってLCAに渡したのか?」
「それも違う・・・あなたの部下は、なぜかみんな寝返らなかったわ。どうしてもね」
「それなら誰が?どこで?」
「・・・わたしが、あなたのノートでウィルスを作ったとは考えられない?サンフランシスコであなたに再会したのは62年の12月。そして、あのロケットが打ち上げられたのは63年の3月。時期的にはOKよね」
「そんな・・・どうして・・・」
「あなたに負けたくなかったのかもしれないわ・・・ただ、それだけだったのかも」
片桐は呆然となった。俺が10年以上打ち込んできたものを、一瞬にして崩し去ったのは、他ならぬさやかだと?俺からすべてのものを奪ったのは、ここにいるさやかだと?
「さやか、お願いだから冗談だとか言ってくれよ。そうしなきゃ、俺の立場がないだろ? ・・・俺が苦しんできたのも、800人が命を落としたのも、みんなさやかのせいだって?そんな・・・」
「ごめんなさい、これは真実よ。わたしも、怖くて言えなかったことだから」
片桐は苦しんだ。どうしてもこの「事実」を否定したかった。さやかを言いくるめてしまいたかった。
そして自然と、いくつかの疑問が浮かんできた。
「でも、だって、そのころは・・・さやかは、ジャーナリストだったはずだろ?LCAに入社したのは、俺が艦に乗るのを決めた前後だろ?」
さやかはほほえんだ。
「今まで、分からなかったの? ・・・わたし、大学出てすぐ、LCAに入ったのよ。ごめんね・・・今まで嘘ついてきて」
片桐は青ざめた。
「そうしたら、サンフランシスコで会ったとき、もうあの時に、お前はLCAで人格コンピュータをつくってた、というのか・・・?」
「そういうこと。わたしって、どうしてこんなに嘘つくのが上手くなっちゃったんだろうね」
片桐の脳裏に、あのときの光景が浮かび上がる。外は雪、カフェに入った片桐の肩に触れたあの手。なつかしいさやかの顔。
しかし、今から思えば、あの顔は、「さやか」のものではなかった。黒いサングラスの下に隠されたあの目は、技術者、冷酷な策略者のそれだった・・・
片桐はなおも、現実を否定しようとする。
「たとえそうだとしても、俺があのカフェに入ったのは偶然だ。君との再会は、偶然のはず・・・ としたら、LCAの計画は偶然の上に成り立っていたのか?」
さやかは片桐の顔を直視できない。テーブルを斜め目線でぼんやりと見つめながら、淡々と言葉を紡ぐ。
「偶然じゃなかったの、あれは・・・ あなたがサンフランシスコのオールドタウンに来るっていうことは分かってた・・・ わたしがカフェにいたのは、あなたの行動を見越してのこと。あの日は寒かったから、きっと入るだろうって・・・」
絶望が押し寄せる。
さやかとの再会が、LCAの目論みだったとは。今までは、運命の再会だとさえ思っていたのに。
その後の彼女との関係には、どす黒い陰謀がつきまとっていたのか?
さやかが俺とつきあってきたのは、俺が好きだからじゃなくて、LCAのためだったのか?
「・・・でも、わたし、正直言ってうれしかった。コンピュータのこと抜きで、とにかくあなたに会えることがうれしかった。あの時は、本当に一瞬、LCAの一員としての立場を忘れたわ。このまま、何も考えずに、あなたと暮らしていけたら、どんなに幸せだろうって」
心の中を見通したかのように、さやかが言った。すかさず片桐が切り返す。
「そしてその一瞬の後は、LCAの一員に立ち返り、俺をもてあそんだという訳か」
「違うわ・・・ いや、違わないのかもしれないけど、わたしにはLCAから抜け出すことはできなかった。こういう形でしか、わたしたちは会えなかったのよ」
「そんなことを聞いてるんじゃない。さやかは、俺のことが・・・ 俺のことが好きで、つきあってたのか、そうじゃないのか」
さやかは即答した。
「好きだったわ。亮くんとしてのあなたが。技術者としてじゃなくて・・・ わたしたち、どうしてこんな職業に就いちゃったんだろうね」
2人とも、しばらく口をつぐんだ。
「さやか、しつこいようだけど、ウィルスを作ったりしたことは、俺とつきあう目的ではなかった、ってことなんだね」
彼女は少し考えてから答えた。ここでは、何もかも正直に話してしまいたかった。
「「菊池沙矢香」としての目的でなかったことは確かだわ。技術者としてのわたしは、そうしたのかもしれないけど」
片桐はうなだれた。もう話はしたくなかった。だが、彼にはもう1つだけ、疑問が残っていた。
「最後に聞きたい。あの時、俺たちが会ったときには、もう俺がMSIEに勤めて、人格コンピュータをつくってたことは知ってたんだよね」
「うん・・・」
さやかは小さくうなずいた。
「でもあの時、確かお前は、俺に職業を聞いたはずだ。あれは演技だったんだね」
「そう」
「それなら、俺がそこに勤めてることはどこから聞いた?あれは秘密プロジェクトだったから、俺の存在は公表されていなかったはずだ。部下からか、それともLCAの情報部隊からか?」
さやかは顔を上げ、片桐を見つめた。うるんだその瞳は、彼女の悲しみをそのまま表現していた。
そうか、苦しいのは俺だけじゃないんだ。さやかも、好きでこんなことをしたんじゃないんだ・・・
片桐がそう思った刹那、さやかが叫ぶように言った。
「あなたがMSIEに勤めてることなんて、6年前から、そう、はじめから知ってるわ。それだけじゃない、どこに住んでたかだって、電話番号だって、あなたのことは全部、調べて知ってた。あなたと別れた時から、全部・・・」
さやかの目から、涙がこぼれ落ちた。
「LCAに入ったのも、人格コンピュータを作るようになったのも、全部あなたに影響されたからよ。少しでも近づきたかった。できることなら、会って話もしたかった。でも、別れて欲しいって言われたのにそんなことしたら、しつこい女だと思われちゃうでしょ。わたしはあなた以外の人に恋したことも、愛したこともないわ。それなのに、あなたに嫌われたらどうすればいい?結局、わたしは自分から、あなたと接触することは出来なかった。勇気がないのよね。あの頃と同じで」
片桐は黙ったままだ。
「別れてくれって言ったのは、あなたでしょ? 一方的に、突然あんなことを言われて、わたしがどれだけショックだったか分かる? あなたにその気がなくても、すごく傷つけられたの。わたしが今まであなたをもてあそんできたっていうのは本当かもしれない。でもそれなら、あの時あなたはわたしをもてあそんだのよ。自分勝手に」
「そんな! 俺は恋が終わることを恐れてただけだ。会えなくなっても恋が続くか、確信できなかったんだ」
「黙って! それはあなたのエゴでしょ?わたしは、遠距離恋愛だってできたわ。別れてほしかったのは、あなたが東京で他の女とつきあうかもしれない、って思ったからでしょ?」
言葉が出なかった。片桐は、さやかの言うことを否定できなかった。
「やっぱりそう・・・ わたしが想うより、あなたは想ってくれなかった。でももういい。この2年間で、わたしはあなたの愛を感じることができた。それで十分。もう、すべていいの。コンピュータのことも、わたし自身のことも」
片桐は、呆然として床を見ていた。だから、さやかの手がテーブルの上に伸びていくのを知らなかった。
「わたしは犯罪者。いくつもの罪をかぶった、醜い女なの。一緒に死んで。そしてまたいつか、同じ星に生まれて、恋に落ちて」
急に、さやかの手が動き、片桐の鼻と口をふさいだ。その手には、液体のしみこんだタオルが握られていた。
片桐は突然の行為に、防ぐ手だてを失っていた。頭がくらっとする。

 これでもいいか。これで悪夢が終わるのなら・・・

だが、脳の片隅が、その思考を強くはねのけた。

 違う。俺は悪くないんだ、死ぬことはない!

気力を振り絞り、腕に力を込め、さやかを引き離そうとする。
(やめろ!)
さやかの方も必死だった。今までに出したことのない強い力で、片桐を拘束する。
(お願い、分かって!)

(やめてくれ!)
片桐は再び力を入れた。だがもはや体は動かなかった。

 嫌だ。俺はさやかにだけは、殺されたくない!

右手が、力無くズボンのポケットに伸びる。
薄れゆく意識の中で、引き金を引く。
「きゃっ!」
青いレーザー光が音もなく、ズボンのポケットを貫き、そしてさやかの足首を焦がした。
口を押さえる力が弱まる。
まさに最後の力を振り絞り、さやかを押しのける。
バランスを崩したさやかは、後ろ向きにそのまま倒れ、カーペットに頭を打ち付ける。
フローリングの床なら危ないところだった。
さやかは自分の状況も分かろうとしないで、落としたタオルを再び握ろうとする。
片桐の手が飛び、それをはねのける。
なお抵抗しようとするさやかを、片桐は押さえつけ、手首を逆にひねる。
さやかの顔が苦痛に歪み、なにかをうめく。髪が乱れ、汗が吹き出している。
そんな彼女に構わず、片桐は馬乗りになり、平手でその顔を容赦なく殴った。
乾いた音がした。
休む間を与えず、もう1発。また1発。
彼女の顔が左右に揺れる。
その目は赤くうるみ、口からは小さくうめき声をあげ、身体は小刻みに震えても、
片桐は殴るのを止めようとはしない。
頬が赤色に染まり、やがて赤紫色になって腫れてきても、
片桐は殴るのを止めようとはしない。
彼女の瞳が許しを乞うように見えた。
でも、片桐は止めなかった。
乾いた音と、涙をすする音だけが、小さな部屋中に響いた。

いったい何発殴ったのだろう。
片桐の頬も上気し、うす赤くなっている。息をするのも大変なほどだ。
一方のさやかは、左を向いたまま、涙はもうすでに枯らして、
何をする気力も失って、ただ目を開けていた。
窓からは17時の光が射し込んで、薄暗い、女の部屋を照らしていた。


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