精神異常前兆小説   <勉強の男>

これは、私がかつて見た、ある男についての実話である。
その男は、勉強熱心だった。あまりにも勉強熱心であった。
放課に声をかけても、「この問題を解いてから」とか「これを先生に質問してから」などと言って、なかなか遊ぼうとしない、そんな男だった。
これは別に、彼が暗い性格だというわけではない。
ただその男が、遊びよりも勉強を好んでいただけのことである。
命を懸けていた。
勉強こそが、その男の命そのものだった。

そんな彼が風邪をひいた。
ちょうど昼下がりの、あたたかな日射しの中、「数学U」の授業は行われていた。
教室の生徒たちは皆、さもそれが当たり前のことだとでもいうように、
黒い背中を丸めて、机上の睡眠をむさぼっていた。
そこに生きているのは、たったの2人しかいなかった。
1人は、むなしい大声で淡々と解説を続けるスーツ姿の老教師。
そしてもう1人は、当然ながらあの男だった。
窓際でただひたすらに、鉛筆(彼はシャープペンシルを持っていない)をうごかしているはずのその男が、今日は、なぜか机につっ伏して、顔だけを教師の方に向けていた。
解説が一段落ついたところで、老教師はコホンと咳払いをし、教室中を見回した。もうため息さえ出ないいつもの光景。
(誰も私の話を聞いちゃいない)
しかし、いや、このクラスには1人だけいたはずだ。私の話をいつも聞いてくれる奴が――
老教師はそう思い出して、改めてもう一度教室を見回した。遠視で乱視の老人の眼には、ほとんど輪郭しか映らなかったが――確かにあの男が、今日は寝たような格好をしている。おかしい。
「おいそこのお前、眠いなら顔洗ってこい。聞くなら姿勢を正して聞け」
その男は、教師の言葉には敏感だった。劣化ウランのように重い自らの上体をなんとか起こし、その言葉に応えた。
「よし」
だが……
ドサッ。
ややイレギュラーなこの音に、彼の周囲5人が目を覚ました。
机に崩れ落ちたその男は、苦しげなうめき声をもらしながら、再び姿勢を立て直そうとした。
老教師は少し慌ててこう言う。
「お前、気持ち悪いのか。保健室へ行ってこい」
「いえ、大丈夫です……早く授業を続けて下さい」
「そうか」
老教師はその一言で問題が解決したものとし、また1つ咳払いをして問題{2}の解説を始めた。
しばらく、何事もなかったかのように授業が続けられた。
安眠を妨げられた5人が再び安らかな世界へと旅立とうとしたその時、
椅子が動いてけたたましく音を立て、
ウォグッ グボゲボゲボオグゥェ―〜
その男が窓から首だけを出し、はげしい嘔吐を行ったのだ。
これには彼の周囲11人がとび起きた。
教師は言う。
「お前、やっぱり保健室へ……」
です……授業を中断しないで下さい」
その男は必死に、汚れた口で叫びをあげた!
「そうか」
老教師はまた納得して、{2}の(3)番の解説を始めた。
さっきの男の叫びで、さらに8人が快適な眠りから引きずり戻された。
目を覚ました19人は皆、その男の方を眺めてうなった。
アクアブルーに変色した顔面は神秘的な美しさを漂わせている。
黒板へと向けられたその瞳は爛々と、燃えるような輝きをみせている。
周囲のささやきあう声を気にして、また10人が顔を上げた。
その間も{2}の(3)の解説は続いてゆく。
ドサッ。
5秒後にまた、
ドサッ。
5秒おきに崩れては起き上がる。からくり人形のようなその姿は、哀れさを通りこして、むしろ微笑ましかった。
教師は実に淡々と、解説を進めてゆく。
崩壊音が40回ほど続いたあと、急に音が鳴らなくなった。何事かと思って皆が彼を注視する。するとその男は、苦悶の表情を隠し切れずに、両手で口を押さえつけていた。
ああ、また吐くのか……
と皆が思った次の瞬間、本命予想は見事外れた。
ゲハッ
モノトーンのノートが、みるみるうちに鮮やかな原色に染まってゆく。その男は一時気を失ったが、また正気をとり返すと、教師に許しを乞うた。
「すみません……気にしないで下さい、授業を……授業を……」
鬼のような形相で訴えかけるその男。その気迫に、老教師はただ首を縦に振るしかなかった。
教室中が騒がしくなる。もはや誰も眠ってなどいられない。
老教師の声が若者たちのざわめきにかき消されて、授業が一時中断する。
教師が彼らを鎮めることができないのは言うまでもない。困った顔をしてチョークをくるくるともてあそび、「私語やめ」と発声するのが精一杯だ。
それを見て。
「黙れッ!! 授業を妨げるんじゃない!!」
血の飛沫を吐き、涙を流して懸命に叫ぶその姿に、一斉に、教室中が水を打ったように静まった。……健気だ。
解説が再開される。老教師の「証明」は、あと少しで完成しそうだ。これが解ければ今日の授業は終了だろう。
だがなかなか解けない。老教師はチョークを口にくわえて考え込んでいるが、どこが間違っているか分からない。クラス全員でうなっていると、
ドシャッ。
慣れきったあの音とはやや異質な音程に、またまた皆がその男の方に向き直る。
その男の右腕は4分の1から先がちぎれ、残りの4分の3が床の上で、死海に浮かんで痙攣していた。
ぎゃあああぁぁぁぁっ
叫びがあがったが、それは彼からではなかった。彼は何かにまみれながらも、すばやく2本目の鉛筆を左手に持ち、黒板の白い文字をひたすら紅いノートへと写すのに懸命であった。
「あっ!」
その男の前に座っていた生徒が、さらに信じがたい異常を発見した。
その男の脚が溶解し、床へとどろどろ流れ出していることを。
もはや誰も、何も言えない。
廊下を走り抜けていく、別のクラスの生徒の足音だけが虚空に響く。
「先生! 7行目のαは、|α|の間違いではないですか」
その男だった。泡まみれの口腔、血みどろの喉から、気丈にも声を張り上げる。
老教師は、指摘のあった個所を見上げた。なるほど。老教師は黒板消しでその行を丁寧に消し、また丁寧に書き直した。そして深くうなずき、
「お前はよく授業を聞いているな。偉いぞ」
そう言ってその男の方へと近づいていった。その男は、教師の顔さえ見る余裕なく、赤黒い血のこびりついた鉛筆をただひたすら、全力で動かしている。老教師はその男の横で立ち止まった。疲れた革靴がピチャと音を立てた。
「ありがとう」
握手を求める老教師の目から、涙がひとすじ流れ落ちた。
その男は見向きもしない。彼の網膜はもはや黒板以外何も映さない。
仕方なく、老教師は痛む腰に喝を入れてしゃがみこんだ。
「ありがとう。」
握手をした。
床の上で冷たくなっている彼の右手に。


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