テレビで「高校生クイズ選手権」なるものを見ました。
確かに、それはテレビ局やら何やらの思惑によって作り上げられた舞台です。
でもそこに登場する高校生達はみんな必死で、一所懸命です。

何かに夢中になって、全身でぶつかっていく人の姿には魅力があります。
それは、人は一所懸命なときにだけ、100%の感情を表に出せるからです。
周囲にはばかることなく涙を流し、ありのままの怒りを大地にぶつける。
そうした行為のひとつひとつが、平ぺったい人生を歩み続ける僕に印象を刻みます。
そして100%の笑顔は、
魅力的であると同時に、自分の中の喪失感、焦りに似た感覚を呼び起こすのです。

燃える対象は、何だっていい――
でも、「その人」にとって燃える対象は、何だっていいわけではありません。
自分にとって価値があると思うものにだけ、人間は本気になることができます。
何かに燃えることは、他の何かを失うことであるかもしれないから。
全く何も犠牲にしないような、一所懸命はあり得ません。
――僕は何も失ったことがない、けれどもこの喪失感は何だろうか?

大学の合格発表で、泣いている人を見ました。
合格に感極まる人。不合格に涙する人。
どうして泣いているのか、頭では理解できる。でもそれは単なる想像にすぎない。
でもひとつだけ、間違いないと確信できることは、
「一所懸命がんばったから、涙が出る」
僕は、自分の合格を知った喜びよりも、そのことにむしろ大きなショックを受けました。
 自分は本気でがんばったことがあるか?
 自分は100%の喜怒哀楽に身を委ねたことがあるか?
 自分は何だか、とてもつまらない人生を生きてきたのではないか?

本当にうれしいと思えるその気持ちは、本当に悔しくてたまらないその気持ちは、
何かに燃えた、燃え尽きることのできた人だけに与えられる特権。
僕の人生に「青春」というコトバがひどく不似合いなのは、たぶんそのせい。
いつも「何かいいことないかな」と思っているのも、たぶんきっとそのせい。
人間って、燃えられる生き物なのに、
燃えないでこのまま終わっていくのは、使われないまま捨てられるマッチ棒みたいなもの。

もう、安易に感動してなんかいられない。
募る危機感に、伴わない行動。
半分あきらめの入った自分がいるのもまた事実。

まだ使えるマッチ棒なのに、ね。


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