マーボ・どうふ【麻婆豆腐】
四川料理の一。豆腐・ひき肉を炒め、唐辛子味噌などで辛く味付けしたもの。(岩波書店・広辞苑より引用)

 それは、あまりにも簡潔な説明であった。だが私はその日、この料理をそのような2行の文章ではとても、いや、一万行の文章をもってしても的確に表現することはできないと悟ったのである。


【序章 「出会いの予感」】
 平成9年8月31日。  母の愛機、カローラUが夕闇の迫る**市内をひた走る。その中で私は、得も言われぬ期待と興奮に胸を躍らせていた。生まれて初めて味わう「本格的な」麻婆豆腐。それはいったいどんな味なのだろう。本当においしいものなのだろうか…… 見慣れた**の町並みを眺めながらしばらく進むと、ついに、目標建物を肉眼で確認。**駅西徒歩5分、中国料理「¥¥」である。過ぎゆく夏休みを惜しむかのように切なげな西日の残光の中で、中国風の飾り付けがひときわ豪華に目に飛び込む。目標に最接近したところで、我々は父の号令の下、カローラUを交差点も近い路上に取り残し、目標への強行突入を敢行した。……断っておくが、我々は決して好んで路上駐車をしたわけではない。駐車場が満車だったのである。このことからも、この店の人気ぶりがうかがえるというものだろう(ただ駐車場が狭いだけかもしれないが)。

 突入した店内は、まだ夕飯時にはいささか早いとはいえ、たくさんの客で繁盛していた。ラーメンをすする者、炒飯をむさぼる者、エビチリソースをなめる者?、皆それぞれのスタイルで、思い思いに中国料理を楽しんでいる。我々はウェイターの案内で、奥の部屋へと通された。そこではすでに、1組の老夫婦が和やかに会食をしていたけれども、他には誰もいない。チャイナな彫刻も色鮮やかで、この“世紀の賞味”にはぴったりのセッティングである。我々はテーブルに腰掛け、メニューを広げた。
 書かれている料理の数は約80,中国料理店にしてはさして多いというわけでもないが、それだけ種類を絞って、おいしいものを出そうという意気込みの現れであろう。麻婆豆腐を捜す。なかなか見つからない……しかしそれは最後のページにあった。「マーボー豆腐」900円。添えられている写真は間違いなく麻婆豆腐のそれである(当たり前だが)。さて横を見れば「マーボ飯」なるものもある。この料理もおなじみなので少し迷いはしたが、麻婆豆腐の味を見極めるにはやはり、米の味に邪魔されない麻婆豆腐の方がふさわしい、いやそもそも今回のテーマはあくまで「麻婆豆腐」だったなと思い直した。その他にも我々は、数種類の料理を注文した。

 ウェイターが去った後、私は氷水をちびちびと口に運びながら思った。
「人間として生まれてはや17年。だがこれまでに一度として、中国料理店の麻婆豆腐を食べたことはない。マーボだマー坊だと、あたかも麻婆豆腐のことを知っているような事を口では言っているが、果たして自分は麻婆の真理を知っているのか。麻婆とは何か。中国四千年の歴史が生んだ、麻婆とはいかなるものか?!」
 そんなことを考えつつ待つけれども、いっこうに“奴”は現れない。ボーッと視線を宙に泳がせていると、なんと店のマスターらしき人が現れた。すかさず父が言うには「麻婆豆腐の写真撮らせてもらっていいですか。」私は極秘裏に撮影すればいいと思っていたが、やはり見つかったときのことを考えるとやばい。同業者のスパイではないかと疑われるおそれがあるからだ。麻婆豆腐だけをテーブルにのせて、その脇に立ってカメラを向けている姿は、どうみても、変だ。(そう思いませんか?)−−ともあれマスターは快諾してくれ、我々は「合法的に」撮影をすることができる身となった。もうあたりをはばかる必要は何もない。−−ところでマスターの日本語はネイティブの発音ではなかった。きっと中国から来たに違いない。それならば、まさに本場中華の、究極の味が味わえるということなのかっ! こうなっては、いやが上にも期待が高まる。

 待つこと10分弱。中卒(失礼)風のアルバイトが奥から皿を持って出てきた。“奴”か!? 我々の間に緊張が走る。しかしそれは、白くだぶだぶの皮に身を包んだ、チャオズ、日本名「餃子」であった。“奴”ではなかったのか、と気が抜けはしたが、私は餃子は好きなのでありがたく頂くことにした。外見はルーズソックスに似ているような気もするが、味は大違いだ。ついでに香りも違う。さすがに中国料理店、餃子の味もひと味違う。だが今回の趣旨とは異なるので多くは書かない。できれば皆さんの舌で、実際に味わっていただきたいものである。

 気がつくと我々は、合計8個の餃子をはやくも全滅させてしまっていたが、いまだに、肝心の“奴”が調理場から出てくる気配はなかった。我々は息を潜めて、その出現を待った。


【本章 「人類の未来はいま、麻婆に託された」】
 その時、誰もが思わず息をのんだ。“奴”が姿を現したのだ。*晃逮捕、聖*逮捕のときの興奮の比ではない。私の眼はその皿を凝視し、その皿は私をにらみ返してきた。やがてその皿はテーブルの上にカタンと音を立てて置かれた。「麻婆豆腐です。」 古いファイルの中から見つけた写真/23kB その冷めた声とは全く対照的に、“奴”は燃えていた。赤唐辛子によって染め上げられた深紅(というにはちょっと苦しいが)の海。そしてその中に、炎でさいなまれてさえ、なおその原型をしっかりと留める豆腐が、何匹も何匹も、その姿を我々に見せつけるように浮かんでいた。その堂々とした面もちは、たった十数年生きてきただけの私を完全に圧倒し、超然とした態度で私を見下していた。四千年の歴史。これまでに軽々しく口にしていたこの言葉の意味さえ、私には何ら分かっていなかったのだ。そしてこの日ほど、その意味を痛感した日はなかった。私はれんげを手に取るのをためらった。もしもこのまま手を出せば、奴らに引きずり込まれたあげく、地獄の海で燃え尽きてしまうかも知れない−−そんな考えが脳裏をよぎった。しかし……このまま帰るわけには行かない、私には“奴らと戦う”試練が与えられたのだ。どうせこいつらも、所詮は食べ物だ。人間に刃向かうとは、生意気な豆腐だ! と気合いを入れて、れんげで奴らをすくい出す。ほら見ろ、すくわれたら一巻の終わり、あとは食べられるのを待つだけだろう、やはり豆腐だな、お前たちは! と心の中で思う。そして世紀の一瞬。世界中の時が止まってもおかしくないほどの、深遠な一瞬。私は麻婆豆腐を、口の中に運んだ。

 うまい!!

 絶品だった。口に含んだ刹那、赤唐辛子の鋭い刺激と、それを上回る「味わい」がいっぱいに広がる。そして二、三度噛めば、あんなに生意気に見えた豆腐が、やさしく崩れてひき肉と調和し、「味わい」をより深めていく。やがて唐辛子の刺激と「味わい」は一体となって、あとをひく「うまみ」へと姿を変えていく。
 私は思わず、二さじ目をすくおうとした。が、父の声が私を制した。「写真は?」
 そうだったのだ。今日ここへ来たのは他でもない、写真を撮るためだったではないか。私はあやうく、麻婆豆腐に魅了されかかっていた。
 正気に返ってカメラを手にし、ファインダーをのぞき込む。そこに写る麻婆豆腐には、さっきまでの攻撃性はみじんもなく、かわりに何か芸術品にも似た気高さが漂っていた。
 そうして撮影したのが上の写真というわけだが、恥ずかしいことに被写体に圧倒されていたために、あまりうまく撮れなかったかもしれない。皆さんにこの麻婆豆腐の凄さが分かってもらえないのではないか、と危惧しているのだがどうしようもない。ただ言えるのは、「本物は違うぞ」ということだけである。

 無事に撮影も終わり、待望の二さじ目にありつけたわけであるが、ここから私は理性的な考察を試みることにした。まず、麻婆豆腐というのは豆腐だけが主役のように聞こえるネーミングだが、実際のところ、ひき肉の果たす役割はどうみても主役級である。また注意しないと見過ごしてしまうのが、ネギの働きであり、これがなくてはどんな麻婆豆腐もふぬけになってしまうだろう。それではまさに画竜点睛といったところで、名脇役のネギにも重大な関心を持つ必要がある。そしてもちろん、「赤い海」をつくるトウバンジャン、テンメンジャンの両中国味噌にも注目せずにはいられない(テンメンジャンは比較的甘い中国味噌で、このごろ日本でも売っているので知っていた。本場の麻婆には必需品である)。さらには、あの独特のとろみを生み出す片栗粉の使い方も微妙なところなのだろう。こうした各要素がすべてちゃんとしていて初めて、一人前の麻婆豆腐となるのである。それには一通りでない修行が必要になるのだろう。
 もともと「麻婆」の「麻」というのは「山椒の辛さ」のことであるという。それにしては山椒が入っている形跡がないのでおかしいと思うが、そんなことは考えてもわからない。この麻婆豆腐を食べて分かったことは、簡単に言えばこういうことだ。
「麻婆豆腐は中国料理店で食え。」
(本当は「中国料理店」のところを「¥¥」にしてもよいのだが、それではあまりに宣伝が過ぎるので・・・)

 今の時代、インスタントの麻婆豆腐が容易に手に入るので、私もこれまではずっとそれで満足し、かつ「麻婆豆腐とはこういうものだ。」という誤った認識をもっていた。しかし、かつて陳健民氏が、麻婆豆腐を日本に普及させようと工夫に工夫を重ね、トウバンジャンをこしょうで、テンメンジャンを赤味噌で代用した麻婆豆腐を創作した(「きょうの料理」97年8月号より)結果が、こういった誤解であるならば、これ以上悲しいことはない。先人の伝えたかった麻婆豆腐とは何か。四千年間、伝え受け継ぎ守られてきた麻婆豆腐というものが、本当はどういうものなのか。その本質に少しだけでもいいから、私たちは触れなければならないと思う。「温泉」を「スーパー銭湯」のことだと思いこんでいる子供がいると聞くのだが、インスタントの麻婆しか知らないということは、それと全く同じ事ではないか。“偽物”であふれかえっているこの社会、“本物”がだんだん失われつつあるなかで、私たちが中国料理店の麻婆豆腐を食べることは、想像以上に大きな意味を持つことであると私は思う。ぜひ、皆さんにも中国料理店に足を運んで、麻婆豆腐を注文していただきたいと切に願っている。


【終章 「おそるべき麻婆」】
 こうして、私の麻婆体験記は無事終わったかのように思われたが、そんなに麻婆は甘くなかった。そう文字通り、とても辛かったのだ……
 食べる前に麻婆のことを生意気だとか、“豆腐”だとかいって馬鹿にしたツケが返ってきたのか、メインのラーメン(豚角煮ラーメン:想像に反し、非常に美味)が来る頃には口の中はもうヒリヒリファイアー状態で、ラーメンを口にしたとたんその熱さが、辛さを指数関数的に増加させ、私は悶絶してしまったのだった。もう汗はダラダラ口はヒーヒーといった感じで、せっかくのラーメンも七割くらいしか味わえなかった。水を飲んでもすぐによみがえる辛さ!(そういえば水を飲むとかえって辛く感じるそうだ。分かっていても飲んでしまう人類の愚かさ……補完が必要なゆえん)あー、こんなに辛い麻婆は初めて食べた。でもどこかで食べたインドカレーと同じで、辛い中にも本当に「味」があるので、「嫌な辛さ」では全くない。でも辛かった・・・

 というわけなので、もしこの店の麻婆を食べるというのなら、ある程度の覚悟を持って行くべきでしょう。他の店でも、四川風の店であればカレー「1辛」並の(某カレーチェーン店の基準で<2000年注:東海地方限定ネタですね。>)麻婆が出る可能性は否定できません。それくらい平気だ、という人が多いでしょうが、念のため。

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