僕は注射が嫌いだ。というより怖い。
もちろん、好きだという人は稀だろうが、18才でここまで怖がる人もまた稀だろう。
幼い頃より、それほどの大病を患ったことがないので、
注射に対する経験が不足しているのが第一の原因だと思う。
しかし、それだけでは説明がつかない。
注射というものは、僕の心の中で時間をかけて育ってきた悪魔なのだ。
その正体も知らないで、いや知ろうとしないで、忌み嫌い遠ざけてきたことが、
悪魔を育む「エサ」となっていた、と言えるのではないだろうか。

小学校の頃は、まだインフルエンザの予防接種が義務になっていた。
そういう意味で、秋は憂鬱な季節だ。
僕は、「保健室カレンダー」なるものが配られるやいなや、
悲痛な面持ちで、そのスケジュール表に目を走らせる。
そして、“死刑”執行の日を知り、愕然となる。
それから約1か月の間、僕の頭の中には千本の注射器が常駐し、
少しでも心の安まるときを与えまいと、絶えず左脳・右脳をところ構わず刺しまくる。
なんとかして逃れたい。逃げたい。嫌だ。
予防接種前日に配られる問診票は、苦悶する僕を奈落へと突き落とす。
絶望さえ許されない。ただひとり、最後まで、逃げ道を探る。
アレルギー・・・なし。既往症・・・なし。
たったひとつの望みは、「今朝の体温」欄に残っていた。
37℃以上なら接種は中止。それを祈り、さまざまな方法を試みるも、
結局は失敗。泣きそうな顔で、エタノールの匂いたちこめる体育館に並ぶことになる。
(中学校では、体温欄にウソを書いて注射を逃れたこともあったのだが・・・)

最後の注射から5年。
たっぷりとエサを与えられ、立派に成長した注射という名の悪魔は、
入学試験という関門を突破した僕の前に、大きく立ち塞がった。
テストと注射を同等に扱うというのも、他の人には考えられないことだろうが、
入学手続きの書類の中に、「血液検査」という文字を見て、
合格に浮かれていた気持ちが途端に鎮まったのは確かである。
そういうわけで健康診断の日までは、言い様のない恐怖だけが心を支配していたのだが、
今回は逃げの姿勢をとるわけにはいかない。大学の合否がかかっているのである。(一応)
ここで少しは成長の兆しを見せたのか、
「どうせ怖がるなら、注射器を前にしてからでも遅くない。
早くから不安になっていても、辛いだけで無意味だ」という考えをもつに至り、
小学校のときと比較すると、かなり平穏な気持ちで当日を迎える。
「本当に、怖れるに値するものなのかどうか、確かめてきてやる」
気合いとともに、Y講堂に足を踏み入れた。

「好きな方の腕でいいから、肩までまくってね」
どっちも嫌だわ! と叫びたくなるのを我慢して、右腕をまくる。
そして、採血の席へ。
「おねがいします」
あまりの恐怖からか、やけに礼儀正しくなってしまう。
少しでもお手柔らかに願いたいものだ。
看護婦さんは、医学部を卒業したてなのか、若くてきれいな人だった。
その微笑みだけが、唯一の救いである。
彼女が取り出したのは、予想に反して“注射器”ではなく、
奇妙な形の器具であった。
「最初は手を握って、そのあとで開いてね」
まず血流を妨げ血管を浮き立たせ、針を刺したあと早く流れるのを
促すためだ、ということを知ったのはこの日の夜のことだった。
つまり、意味が分からなかったわけだが、とりあえず従うことにする。
針を見るだけで絶望感が身を満たすので、絶対に見ないぞと
心に決める。
「ちょっとちくっとしますからねー。」
おばさんにこんなことを言われると、「ちくっとどころじゃないだろ!」
と噛みつきたくなるが、今日は素直にうなずいてしまった。
あるいは、僕の不安な表情を見ての言葉だったかもしれない。
斜め横の空間を凝視しながら、僕は待った。
悪魔の尻尾が、僕を激しい苦痛とともに貫くその瞬間を。
ぷすっ。
なにかが皮膚を通る感触が確かにあった。
あれ? 痛くない?
戸惑い、そして喜びを覚えながらも、僕は一旦針を見てしまうと、
鋭い痛みが走るのではないかと怖れ、ずっとあらぬ方向を見つめていた。
痛くはないが、精神的に圧迫された時間が過ぎてゆく。
まだ終わらないのか、早く終わってくれ。
その様子は、これから大学生になる者とは思えないほど、
情けないものであったに違いない。
もしかすると、看護婦さんは笑いをこらえていたのかもしれない。
「もうすぐ終わりますからねー。」
ありがたい。お願いしますよ、本当に。
身体を少しでも動かしたら、皮膚を破る痛みが襲ってきそうで、
怖くて微動だにできない。
「はい、抜きますよー。」
抜くときに痛いかもしれない、と身構えたが、そんなことはなかった。
はぁ。
放心状態で、止血のための脱脂綿をシールで貼ってもらう。
これで、これで終わったのだ。僕は大学生になったのだ。
席を離れ、注射した部分を左手で押さえて2分間ほど待った。
さて、次は心電図だ。
もう血は止まっただろうと思い、脱脂綿を取ろうとすると、
別の看護婦さんがやってきて、「取らないほうがいいよ」と教えてくれた。
だがすでに、ほとんど取れてしまっていたので、代わりのシールを
貼ってもらった。特別サービスだ、うれしい。
「注射、痛かった?」
予想外の言葉に、僕は素直に答えた。
「いや痛くなかったです。怖かったですけどね」
「こわかったでしょうー」
ほとんど幼児をあやすような言葉ではあるが、言い方に棘がなかったので、
快くさえ感じた。
そう、確かにこわかった。
でも、これでまたひとつ、強くなれたかもしれない。
さっきの看護婦さんが、他の看護婦さん達とともに談笑している。
どうやら、僕の言動がウケたらしい。
馬鹿にされているようには聞こえなかった。
それはきっと、自分にちょっとだけ、自信がもてたからに違いなかった。



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