輝国山人の韓国映画
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1904年 2月18日 慶尚北道 テグ(大邱)で,放浪癖がある 父イ・グンス(李根洙)と母チャン・オクチン(張玉振) の一人息子として生まれた。 母は,一月に一度だけ顔を見せる夫には期待が持てず, 大富農である叔母の夫を頼ってソウルへ住みかを移した。 家政婦仕事をする母のおかげでホンウン(弘恩)洞の ポジョン(普正)普通学校 卒業した。 ポジョン(普正)普通学校の教頭の推薦で,フィムン (徽文)義塾(フィムン(徽文)中学の前身)に入学し たが,父の姉妹の子が没落したため学業を中断し,ソウ ル生活8年を清算して帰郷した。 1918年 賃金針仕事をする母の努力で,テグ(大邱)ケソン(啓星) 中学校2学年に編入した。 学科勉強よりは,芸能方面に関心を持ち,その中でも, 特に映画が好きだった。 ケソン(啓星)中学校4学年のときに3・1運動に参加し, その後,ミリャン(密陽)で2年間の逃亡生活を送った。 1922年 ある友だちの助けで日本に渡り,東京・神田の日本映画芸 術研究所で6か月間修練 1928年 ハリウッドに行くため,プサン(釜山)から貨物船平安 丸に乗って上海に向けて発つ。 上海で小説家のキム・グァンジュを通じてイ・ギョンソン, チョン・チャングンを紹介され,シナリオ<霊肉乱舞> の映画化を試みたが,日の目を見なかった。 再び日本に行き,京都新興キネマ撮影所に入所 後日<旅人>(1937)の演出をすることになる鈴木重吉 に出会って,助監督に任命された後,3年間演出修業 帰国後,28歳の時に書いたシナリオ<ため息をつく骸骨>が, 朝鮮日報学芸部にいたアン・ソクヨンの紹介で朝鮮日報に掲載 される。 1932年 <主なき渡し舟> 監督,脚本,原作,編集 [監督デビュー作] パク・ヒョリン(朴暁麟)原作<主なき渡し舟>の脚本を完成 し,出資者であるカン・ジョンウォンに出会って,映画演出の 念願が叶う。 ムン・イェボンのデビュー作 チュンサム(春三)という素朴な船頭が,鉄道が作られること で生活の基盤を失うことになって,彼の愛する娘を蹂躙した鉄 道技師を殺し,住んでいた家まで燃やした果てに,自分の命を 絶ってしまうという悲劇的な内容の映画 朝鮮映画界でこれまで見られなかった新しい監督で,明快な撮 影がなされた映画で,恐らくこれまで出てきた朝鮮映画の覇権 を捉えるに値すると評された。 1933年 <明け行く人生> 監督,脚本 1935年 <海よ語れ> 監督,編集 ヒョン・スンヨンのデビュー作 後に,<その後の李道令>でデビューするトク・ウンギが早く 亡くなった父の土地を担保にして制作を支援したが,興行に失 敗した。 1936年 <虹> 監督,企画,制作,編集 1936年 <その後の李道令> 監督,脚本,企画,制作,編集 トク・ウンギの土地を取り戻すために制作し,この映画で得た 収益で土地を年戻すことができたそうだ。 1937年 ワン・ピョン(王平)と共にソンボン(聖峰)映画園を設立 1937年 <ナグネ(旅人)> 監督(鈴木重吉と共同演出),脚本,企画 密陽江(ミリャンガン)の岸に位置する漁村を背景に風飛雹散 されたある家族の悲劇を写実主義的技法で描いた映画 イム・ファは,トーキー時代に作られた最も優れた朝鮮映画だ と絶賛し,映画史的にナ・ウンギュの<アリラン>と類似の意 義を持つと評すなど良い評価を得た。 1939年 <新しき出発> 監督,脚本,編集 1941年 <蒼空(原題:石頭)> 監督,編集 傾き始めた暮らし向きの中で,農夫である両親を冷遇した二人 の息子の改心を描いた映画 解放までの4年間,メガホンを取らなかった。 日帝のいわゆる国策映画制作には加担しないことを意味するが, その代わり徴用状を発行されて、1944年以後、京畿道ピョ ンテク(平沢)で強制労働を行うことになり,千人余りの同胞 とともに飛行場を築いた。 1945年 解放の1週間後に上京して再起を準備した。 1946年 <トルトリの冒険> 監督,編集 倉庫から米を盗み出して北朝鮮に送ろうとする一党の計画を探 知して一網打尽にする小学生少年の勇敢な冒険期 キム・ヨンスの原作脚色で興行に大きく成功した児童映画 1947年 <民族の夜明け> 監督,編集 1947年 <彼らの幸福> 監督,脚本,編集 1948年 <海燕(別名:鴎(カモメ))>
監督 社会から冷遇された問題児童を教化させる娘の話 チョ・ミリョンを主演に抜てきしてスターに育てあげた作品 1949年 <帰って来た母> 監督,脚本,編集 1955年 <春香伝> 監督,脚色 全国で1億7千万ウォンの収入を上げた程に興行に成功した。 この映画の演出部には,ユ・ヒョンモク(兪賢穆),ハ・ハンス(河漢洙) チョン・イルテク(鄭一宅),チェ・フン(崔薫)がいた。 1956年 <沈清伝> 監督,脚本,編集 1958年 <青春悲歌> 監督 1959年 <哀恋の花束> 監督,編集 1960年 <落花岩と三千の宮女> 監督,脚色 1962年 <情> 監督,脚色 1963年 <傷ついた二人の女> 監督 1973年 <ペタラギ> 監督 人間の無知と誤解がもたらした悲劇を描いた作品 1974年 <男寺党> 監督 1982年7月4日 逝去 解放前に8本,解放後に14本など全22本の作品を残すとともに, ユ・ヒョンモク,チェ・フン,ハ・ハンス監督を映画界に排出した。 1990年 第4回 利川(イチョン)春史大賞映画祭/特別功労賞(追敍) [最終更新] 2015-05-22