小屋の水平線に夕日を呼び込む

sunset house in goa.
日本を出て約半年、やっと海に出た。私の旅は上海まで二日、鑑真号の中で始また。そこは、中国人や個人旅行者であふれていた。私が26の時だった。上海からシルクロードを通り、途中チベットまでトラックをヒッチして無理矢理行ったりしながら、トルファン、カシュガルの砂漠をぬけ、半ば強引に 国境を越え、パキスタンを縦断。フンザ、ギルギット、ハイダラバード。B・ルドフスキー著、「建築家なしの建築」の世界を生で視、感動しながら、消滅していく寂しさを感じていた。
 そのままイラン、トルコ、ヨーロッパ、と行く予定が、ここまで来てインドに寄らない手はないということで、インドに入国。ヨガ道場に行ったり、川で泳いだりしながら、やっと、この小屋の場所、インド西海岸のゴアに着いた。
 
ゴア州というのは、外国人に開放的で、アルコールもある。乾期のビーチには多くの人が滞在していた。インド大陸のエッジは突然終わり、がけの下には、椰子の木とビーチ、砂浜の上には、椰子の葉とバンブーで出来た茶店、ヌーディストヒッピー、海の向こうには夕日。みんなそのあたりの椰子の葉の小屋や藪の中、子供の時の秘密基地のように棲んでいる。もちろん電気も水道もトイレもない。水は岩から浸み出、海には蟹もいる、たき火や、ケロシンストーブで料理し、夜はろうそくである。人の少ないビーチに一件ある茶店のそばに1シーズン百円で土地を借りた。これからが生活の始まりだった。

 
 共同生活者は、茶店のおばちゃん、その息子のウメシュ、なぜかいつもここにいるG1,みんな茶店で寝泊まりしている。それと旅の途中で、出会った同居人と私である。借りた土地に小屋を建てるため、みんなで椰子の葉を編んだり(これを編むときは、海水につけて柔らかくして編む)、材料を買いに行ったり。まず地面を掘り、バンブーを立て、子供に上まで上ってもらい、バンブーを組み、椰子の葉を結びつけ、「夕日を見るための装置としての小屋」sunset houseが完成した。ちょうどこの季節真正面に沈む夕日を呼び込むように、この縦長の額縁はランドマークとして建ち、中からは無駄な物は一切見えない。夜明け前の満月も格別である。額縁は夜になると布を覆いベッドとなり、庭の部分では、テーブルとイスのようにせり出した岩で食事をし、いろりで火をたき、一番低いところで体を洗う。一番高いところでは、明かりをともして、お供えをし、自分たちの神を祭る。朝には編んだ椰子の葉の間から日が射し込み煙にあたりながらきらきらしていた。いろりの火は神聖なものとして灰が汚れないように気をつかい、その灰で食器を洗い、ゴミはほとんどでない。

排泄行為は外の藪の中に一応場所を決めていたが、人の通らないあたりにあちこちで排泄した方が気持ちいい。まあ紙を使わないため一週間もすると完全に消える。犬が食べることもある。豚は大好物である。一度後ろから肛門を舐められたこともある。野良牛もときどき来て、小屋に首を突っ込みなにやら食べていることもあった。このとき小屋は牛の唾液だらけになる。牛の糞はたき火の燃料で殺菌作用もあるという、よく乾燥させて使う。時々カシュナッツが生っているのを発見する。小さなりんご大の果実の下に曲玉のようなものが下がっている。この果実がまたおいしい。これから焼酎も作る、のみすぎると危険といわれながらいつも飲んでいた。ナッツの部分の皮をむいて(このとき気をつけないと手や顔がかぶれる。)中身を口の中で噛み続けるとどんどんおいしくなる。何か祝い事があるとマプサという町までバスに乗り市場で生きた鶏を買い、その場でさばいてもらい、隣村のチャポラという漁港で船から蟹をバケツいっぱい買いみんなで食べた。しかし、ここはまだ都会的だった。

 ある日、吉野のお坊さんに会い、ジャングルに行くことになる。小屋からバイクで30分ほどの村から海岸ぞいに歩き岩山を向けると、砂浜を隔てて、百メートル四方位の湖があり、きれいな小川に沿ってジャングルが広がっている。
人工物など一つもない。ジャングルを奥に入っていくと、バニアンツリーと呼ばれる枝が五十は広がっている大きな木が現れる。その根元になにやら人が何人かいる。近ずくと地面に土がきれいに塗られている。この木を祭る場所である。ここでは川や森を汚さないよう掟がある。例えば食べかすなどは同じ場所に溜まらないよう西方八方に投げる、もちろん土に帰るものだけだが。インドの聖職者サドゥやヒッピーが何人か地面に土を塗ってこのあたりに寝泊まりしている。私たちもここに二週間いた。ここの土と椰子の実の皮で焼き物をしながら。

ジャングルでの寝床の入口「吉野のお坊さんもここで寝ていた。」
 ひさしぶりsunset houseにもどる。G1が毎日花に水をやってくれていた。もちろんいない間は彼が使っていた。G1がお母さんに会いたいと言うことでしばらくして彼の地元に行くことになった。バスを乗り継ぎ、まずおじさんの家に行った。昔何かあったのか家に入れてもらえなかった。G1の友達の家で休み、頭が2つの椰子の木があるという島に渡り一泊し、戻ってバスに乗り、今度はお母さんの家に行った。十四年ぶりの対面だといっていた。それから一ヶ月後、goaを後にする日の前日、少し様子のおかしいG1を残し、パーティに行った。次の日帰って来ると、おばちゃんが泣いていた。この日、G1はsunset houseで逝ってしまっていた。近所の人がみんな声をかけてくれて「only going」という。朝まで泣いて、私たちしか知らない彼の地元へ伝えに行った。彼のおじさんは、私たちの靴にキスをしてくれた。それから日本への帰路へついた。

G1とウメシュ「島に渡るカヌーの上」

頭が二つの椰子

G1のお母さんと一緒に写真を撮る

掲載紙:お世話になったみなさん、おばちゃん、ウメシュ、亡きG1 、ありがとう。吉野のお坊さん「故田中順栄さん」ありがとう.

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