----ラッシュのファーストアルバムに伴うツアーは1974年8月14日に始まりました。しかしこの前にもラッシュはライヴを行っています。まずはそこから----
ラッシュの最初のギグ。それは1968年の8月に行われた、とされている。このときのメンバーはアレックス・ライフスン、ジョン・ラトジーそれにジェフ・ジョーンズ(Ba.& Vo.)であった。
ギグはトロント郊外の「ザ・コフ・イン」という名のコーヒーハウスで行われ、演奏曲は Cream のカヴァーを中心とした、当時流行っていたハードロックであったらしい。
しかしこのラインナップは一回のギグで終わった(ようだ)。バンド自体の評判は良く、「ザ・コフ・イン」での継続した出演が決まったのだが、ジェフにはそれほど魅力的な話ではなかったらしい。つまり、まだ単なる学生のコピーバンドであったという事だ。
2回目の出演日、急遽代わりのベーシストが必要となったアレックスは、良くアンプを借りており、セッションもしたことのあるゲディ・リーと連絡を取り、ゲディ本人を借りることとなった。そして同年9月、アレックス、ジョン、ゲディという 1st アルバムの布陣が初ライヴを行った。
その後、ジミ・ヘン、フー、ベック、ストーンズ、プレスリーの "監獄ロック" などがレパートリーに加えられた。またこのころからオリジナル曲も書き始め、その中には "Losing Again" "In The Mood" という名の曲があった。
同年のクリスマス、ラッシュはキーボーディストしてリンディ・ヤングを加える。4人編成となったラッシュは1969年5月にゲディがジョンと仲違いして追い出されるまでの約4カ月間、発展していった。
ラッシュはベーシストにジョン・パーナを加え、バンド名を「ヘイドリアン」と変更した。こうしてラッシュは一度解散する。
ゲディが結成した「ジャド」が好評なかわりに、「ヘイドリアン」はあまり出番がなかった。そして1969年9月に「ジャド」が解散したのを受け、ラッシュが再結成された。このときリンディは大学に進学しており参加しなかった。
そして同年秋、運命のバンド Led Zeppelin と出会う。そこからゼップのスタイルを取り入れた曲作りが始まった。また、ゲディが裏声で歌うことを始めたのもこのときからであった。
1969年の暮れには "チャイルド・リボーン" というテンポが複雑に変化するオリジナル曲が演奏されている。このころ既にラッシュはオンタリオ州中をサーキットしていた。そのほかのオリジナル曲には "Number 1" "Keep In Line" "Run Willie Run" "Mike's Idea" "Tale" といったものがあった。
1970年の間じゅうライヴとオリジナル曲作りが続けられた。
1971年2月、ミッチ・ボッシというギタリストを加え再び4に編成になったが、数カ月で彼は脱退し3人に戻っている。
同年夏、コーヒーハウスや高校のステージ以外に、はじめてバーでギグが行われた。が、オリジナル曲を演奏したい、と主張したため夏の間はたった3つのギグしかできなかった。そこからこの夏は "The Dead Summer" と呼ばれた。しかし、暇な間は作曲が行われ、"Working Man" はこの時期にかかれた。他に "Slaughterhouse" という曲もあった。
同年暮れになってやっと評判を取り戻し、1972年になると "Fancy Dancer" "Garden Road" といったオリジナル曲も演奏されていた。
1973年、ライヴをはじめて5年目に入っていたラッシュは、ついにレコードを製作することになった。それが「Not Fade Away/You Can't Fight It」シングルである。
「Not-」はバディ・ホリーのカヴァー、"You Can't-" はオリジナルであった。しかしこのシングルはセールス的に大失敗した。そこで彼らはアルバムを作る、という大きな賭にでた。すべて自費で録音し、配給だけをロンドンレコードに頼もうという計画だった。
レコーディングは終わったものの、その出来にメンバーは満足できなかった。そこでプロデューサーを頼むこととなった。そこで出会ったのがテリー・ブラウンである。
彼のプロデュースの元、1st アルバム "RUSH(閃光のラッシュ)" は完成し、3,500枚、カナダローカルで配給されることになった。
当初1973年12月の発売を予定していたラッシュは、"Rush Times Three" という短いツアーを行った。ラッシュ、マホガニー・ラッシュ、ブルラッシュの3つのバンドが合同でやったので「ラッシュかける3」というわけだ。
同年10月27日にはニューヨーク・ドールズとのダブルヘッドライナーでのライヴも行われた。
石油不足のためリリースの遅れた 1st アルバムは1974年1月、ついに発売された。
その後、アメリカのラジオで "Working Man" がかかり、それを気に入ったブルーカラーの人々がアルバムを買い求めたため、ついにアメリカの大きな会場でのライヴが実現した。もちろん、ZZ top のオープニングアクトとして、だが。1974年6月28日のことだった。
その後アメリカでの人気が徐々に高まり、ついにマーキュリー社との契約が結ばれた。
8月14日に始まる数カ月のツアーが設定され、アルバムもその2週間前に発売されることになった。が、この長く、しかも前座としてのツアーについての不満を初めとする様々な問題から、ジョンが永久的な脱退を宣言する。
ツアー開始2週間前、急遽ドラマーが必要になったゲディとアレックスは、何人かのオーディションの後、二人の共通の友人に紹介された、ハッシュというザ・フーのカヴァーをしていたバンドのドラマー、ニール・ピアートのオーディションをする。
ゲディとニールはすぐに意気投合し、結局7月29日にニールは正式なラッシュのメンバーとなった。そして8月14日、アルバム "RUSH" の発売に伴う初のアメリカツアーが始まった。
(Visions:The Official Biography より抜粋)
さて、こうして始まったアルバム "RUSH" のプロモーション・ツアーでの演奏曲について解説します。
この時期は前述の通り前座としての演奏だったので、最長でも1時間足らずの演奏でした。8月26日のセットリストは次の通り;
- Intro/ Finding My Way
- Best I Can
- Need Some Love
- In The End
- Can't You See
- In The Mood
- Bad Boy
- Here Again
- Working Man/ Drum Solo
"RUSH Tour" 前半の約1時間のセットの時は、基本的にこの様なセットリストであったと思われます。
この中で "Can't You See" はレコード化されていない曲。また "Bad Boy" は50年代のラリー・ウィリアムズの曲で、ビートルズもカヴァーしたとか。