second notebook 《彼女のリコーダー》


昇降口の一件以来、僕は幾度となく母に頼んで、朝早い校舎に送り込んでもらっていた。
もちろん、それは性的な目的からであって、本当に仕事をしたのは、そのうちの2〜3回に過ぎない。
こういうわけで、「メダカの水替え」というのは、実に都合のいい口実だった。
もちろん、朝だけではない。
僕の中の悪魔は、夕方にもその本性を現し、僕の理性に揺さぶりをかけてきたのだ。

午後4時半。放課後の校舎からは生徒達のざわめきが消えて、
夕陽に照らされた校庭では、大会に向けて練習に励む部活のメンバーだけが、長い影を引きながらトラックを回っている。
昼の学校から、夜の学校へと、陽から陰への移り変わりが起こるその境目に、僕は校門をくぐった。
下校するのではない。忘れ物を取りに来たのだ。・・・少なくとも、このように母には言ってある。
僕の祖母は、昔から忘れ物にはうるさい人だった。
僕が何か忘れ物をして学校に置いてくると、それがどんなにつまらないものであっても、
かならず自転車で走っていって、取りに行ってくれた。
高学年になってからは、忘れ物をするたびに、母が車で学校まで送ってくれた。
それくらい過保護な少年時代だったし、現在も、質的にはさほど変わっていない。
ともかく、僕は体操服を忘れたとか何とか言って、放課後の学校に入る機会を得たのである。
校舎内は、本当に誰もいないかのようだった。
オレンジ色の夕陽が射し込む廊下を歩いていると、どうしようもなく切ない気持ちがこみ上げてくる。
この気持ちは、そう単純なものではなかったのかもしれない。あるいは、叶わぬ初恋への憔悴がこもった、切実な気持ちだったのかも知れぬ。
僕は3階にある、6年生の教室へとたどり着いた。僕はまだ5年、言うまでもなくここは、例の「亜衣」さんのクラスである。
慎重に中をうかがってから、足を踏み入れる。カーテンもひらいたままの窓際から、赤々と射し込む夕陽が、教室中のすべてのもの−− 黒板、机、椅子、床−−を朱に染めあげている。本当に夕陽の明るい日だった。目だけでなく、やましい心が痛くなるほどに・・・。
半開きにされた窓の外からは、サッカー部の練習の声が聞こえてくる。
そして、廊下から音が聞こえはしないか、誰か近づいてはこないか、と耳をそばだてる僕。
誰もいない、そう確認して僕は、必死の思いで彼女の机を探し始めた。
誰か来たら言い訳はできない。とにかく早く、見つけださなくては・・・
机上に貼ってある名前シールを手がかりに、僕は放課後の教室をこそこそと動き回った。
ときどき誰かの来る気配を感じ、ドアのところまで走っていっては、ほっと胸をなで下ろしながら。
そして、見つけた彼女の机の中には、いろいろなものが入っていた。
意外と乱雑に押し入れられている教科書やノート。しかし僕の目に留まったのは、そんなものではなく、 布ケースに入った一本のリコーダーだった。
おそるおそる机の中から引き抜いて、ボタンを外し、中身を取り出す。
その裏側、口にあてるところの下には、他でもない、彼女の名が白く彫り込められていた。
僕はそのリコーダーを手に取った瞬間、自分が今したいことを自覚した。
今日は、音楽の授業はあったのだろうか。あったらいいのに・・・
そんなことを考えながら、僕はそのリコーダーの先端のにおいを嗅いでみた。
何もにおいはしなかった。
僕は続いて、それを口に含み、舐め始めた。
彼女の唾液の味が分かるかもしれない。とにかく舐めてみたかった。
「間接キス」というには、それはあまりにも濃厚だった。
僕は何度もそのリコーダーに舌を絡ませ、そして我を忘れて中の空気を吸った。
もしかしたら、中に残っているかも、と思ったのだ。
自分の経験から、リコーダーの中には唾液が結構残るものということは知っていたから。
でも、それらしき感触は全くなかった。残念という言葉では済まされないくらい心残りだった。
どうも、この笛は最近使ったものではないらしい。
それならば、と僕は自分の唾液を口の中にできる限り溜め込み、リコーダーの中へと一気に流し込んだ。
口をはなし、もう一度唾液を口いっぱいにして中に入れる。三度目はしたかどうか覚えていない。
それが終わったあと、舌の上に唾液を多めにのせて、先端の部分にふたたび絡みつけた。
口につける白い部分に流された液体に、夕陽が反射してきらきらと輝く。
僕はそのとき急に我に返った。誰か来たか? 根拠もなくそう感じる。
幸運なことに、誰も来ていなかったが、このとき先生が後ろに立っていたとしても、 僕は気づかずに、まがまがしい行為にふけっていたと思う。
リコーダーを横に持って、液体が垂れないようにしながら、ケースに収め、机の中に戻す。
明日、もし音楽の授業があったら、亜衣さんは何と思うだろうか。
僕には、そのときの彼女の表情を見ることさえできないが、それで十分だった。
どちらにしろ僕と彼女の間には、これである程度のつながりができたわけだから。

僕は廊下の様子を注意深くうかがい、誰もいないことを確認してから教室を後にした。
けれどもしばらく歩いて、気分がようやく落ち着いたとき、なんと前方の階段から6年生の女子が現れた!
一瞬心臓が止まりそうになったが、その女子は何事もなかったかのように、すたすたと僕を無視して歩み去っていった。
もし彼女が、あと数分早く3階に上がってきていたら・・・
そして、彼女が亜衣さんと同じクラスだったとしたら・・・!!
自分は本当に幸運だったと、僕は今になってつくづく思うのである。



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