輝国山人の韓国映画
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1910年 6月2日 咸鏡南道 咸興(ハムフン)で出生 実名は,漢字が違う李炳一(イ・ビョンイル)という説と イ・ビョンノク(李炳禄)という説がある。 咸興(ハムフン)高等小学校 卒業 咸興(ハムフン)第一公立普通学校 卒業 1927年 咸興(ハムフン)高等普通学校 卒業 1932年 <かわいそうな人々>(ファン・ウン(黄雲)監督) 主役で出演 日本へ留学 東京(神田)のミサキ(三山寄)英語専門学校に入学 1933年 日本留学中にキム・ソドンとコリアレコード社を設立 パク・キチェ監督の<春風>の主題歌を制作したり,新人歌手を 輩出するところで仕事をした。 1935年 ミサキ(三崎)英語専門学校を卒業 松竹蒲田撮影所の助監督公開募集に応募したが,面接の時,俳優を するつもりがあれば受け入れるという話を聞いてあきらめた。 1935年 4月 ニッカツ(日活)映画会社演出部に入社,阿部豊の下で演出勉強 第1回作 <恋愛と結婚の書>を作った。 1940年 帰国後,咸興(ハムフン)でミョンボ(明宝)劇場を運営したイ・ ギウンとミョンボ(明報)映画社を設立 1941年 <半島の春>
監督,脚色 1940年度週利朝日大衆文芸懸賞募集当選作<半島の芸術家>を脚 色した映画 新人俳優を愛する映画制作者が,資金難に直面して作品を完成させら れないまま獄苦を経験したが,難関をはね除けて再起するという内容 で,興行にも成功した。 1942年 朝鮮映画制作株式会社 専属監督 入社 1943年 <半島の乙女たち> 監督 1944年 <赤旗はまたくる> 1945年 朝鮮映画建設本部で<解放ニュース>の制作に参加 左翼組織の朝鮮プロレタリア映画同盟 中央執行委員 1947年 右翼映画人組織の映画監督クラブに参加 1948年 外務処長ハン・ウォンシンの推薦で,20世紀フォックスの招請を受けて 渡米 1949年 アン・チャンホの息子であり映画俳優であるフィリップ・アンの推薦で 南カリフォルニア州立大学(USC)で修学 1950年 撮影機材を購入して帰国使用としたが,6・25韓国動乱(朝鮮戦争)に遭 遇して,やむをえず日本に留まるほかはなかった。 1954年 帰国 1954年 東亜映画社を 設立 1956年 <嫁入りの日>
監督 オ・ヨンジンの戯曲<メン(孟)進士宅の慶事>を映画化 権力者の一族と姻戚になることを期待してパンソ宅(テク)の息子を婿 として迎えることになったメン進士(キム・スンホ)が,その婿の候補 がびっこという流言を聞いて,急いで小間使い(チョ・ミリョン)を娘 の代わりに嫁がせることを決意して起こるエピソード中心の時代風刺劇 1956 アジア映画祭 最優秀喜劇賞 [You Tube] https://www.youtube.com/watch?v=r-vWPHzI7ZI&t=6s 1959年 <自由結婚>
監督 続いて婚期に達した3姉妹が見合い結婚を嫌って自由恋愛を謳歌すると いうホームドラマ 1959 第3回 国際映画賞 作品賞 アジア映画祭,ベルリン映画祭,エジンバラ映画祭 出品 1962年 <青春日記> 監督 放送局の若いアナウンサーと製薬会社社長の娘のロマンス 1962年 <ソウルの道> 監督 1962年 韓国映画制作者協会 会長,アジア映画制作者連盟 副会長 1963年 <故国への船> 監督 夫に会うために多くの辛酸と苦難の末に日本へ密入国した2人の女性が, 夫と母にそれぞれ会ったが,密入国者という理由で逮捕されて送還され てしまう話 1964年 <孔雀夫人> 監督 考え方と趣味が違って仲が良くない夫婦が,子供の役割に感化されて和 解する話 1974年 フィリピンアジア映画祭 大会議長 1978年 大韓民国芸術院 会員 1960〜70年代には,多数の作品の制作者として活動した。 1978年 持病である心臓病で死去(68歳) [監督作品]
制作年 | 作 品 名 【原 題 名】 |
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1941 1956 1959 1959 1962 1963 1964 |
半島の春![]() 嫁入りの日 ![]() 自由結婚 ![]() 青春日記 ソウルの道 故国への船 孔雀夫人 |
[最終更新] 2017-03-13