「野蛮人のように」100年たっても可愛いぞ

ひろ子の前にひろ子なく

薬師丸ひろ子という女優さんは実は我が国の産業界に多大な貢献をしていることをご存じだろうか?彼女の存在なくしては我が国産業の「ある分野」の成長は大きく遅れていたかもしれない。それがビデオソフト産業だ。

かつて彼女のアイドル全盛期と我が国ビデオソフト産業の黎明期がぶつかった。それまでわずかなタイトルしかなく高価な存在だったパッケージビデオは,彼女の主演映画の連続ヒットと速やかなビデオ化でかつてないセールスを記録した。

まさに売れるビデオソフトのパイオニアであり,彼女とその主演作あったればこそビデオソフト業界は産業として前進することができたのだ。

ひろ子の後にひろ子なし

その彼女もデビュー以来すでに20年。今では角川映画の華として人気絶頂だったころのオーラは薄れているが,その名は独特の「この人は別格」の感を今もまとい続けている。最近でこそテレビドラマでも見ることがあるが,元々若い女優さんには珍しく徹底した映画指向で「スクリーンでしか会えない」本物の映画女優なのだ。

今はなき角川書店のバラエティ誌は別名薬師丸ひろ子ファンクラブ会報とまでいわれていたものだが,むろん僕も由緒正しきひろ子ファンとして創刊号から愛読していた。

写真集も即日完売だったが,当然,下品なヘアヌードなどという代物ではない。史上もっともセーラー服の似合うアイドル女優のスナップには燦然と輝くオーラが吹きこぼれていたのだ。シアワセだったなー。

当時の薬師丸ひろ子は地上10センチほどに浮かんでいる印象があって,ある意味生身の体で宮崎ヒロインの属性を持ち得たかもしれない空前のキャラクターだったのである。

Cute & Charming

さて「野蛮人のように」である。これは彼女の主演作の中ではなぜか評価が薄いタイトルである。これほどチャーミングな作品なのに不思議なことだ。

「野生の証明」も「セーラー服と機関銃」も「Wの悲劇」も確かに彼女を語るときには避けて通れないのだが,角川のアイドル路線からちょっと離れて作られたこの愛すべき小品を忘れるのはあまりにももったいない。僕にとってはこの「野蛮人のように」こそもっとも完成度が高く小粋な作品としてベストに挙げたいくらいなのだ。

まずなんといってもこれほど彼女のアップがチャーミングな作品はほかにない。薬師丸ひろ子を見るための映画としてこれにまさるものはないのだ。

彼女は露出度にかかわらずそのからだの線に全然女の色気がない。もうこれは断然決然きっぱりと色気がない。きっと裸になればそれなりに出るとこは出てへこむとこはへこんでいるんだろうけど映画の中の彼女からはそういった感じは実にきれいさっぱりぬぐい去られている。

にもかかわらずこの「野蛮人のように」を見ているとこの娘を我がものにして好きなだけいじくり回したいという野望が真夏の積乱雲のごとくわき起こってくるのである。ううむキケンだ。

神聖ひろ子帝国を拝せよ

この映画は徹頭徹尾作り物感覚で撮られている。そこがキッチュにならずに粋な可愛らしさにつながっているところが気持ちいい。上手に作り上げた小さな世界なので決して現実そのものの悲惨さやリアルな痛みに侵されることはない。ヤクザの抗争に巻き込まれた若い二人の物語という飛ばない話にもかかわらず,最後まで夢を見ているようなふわふわした雰囲気に包まれているのだ。

たとえばヒロインが不思議の国のアリスのキャラクターたちと絡むシーンがあるが,こういった本筋とはあまり関係のない遊びも,この映画そのものが彼女をアリスに見立てた一夜のワンダーランドのようなものなので妙に似合っている。

アイドル映画というのはまずアイドルの姿を幸福にながめられることが大切だ。その上で1本の映画としても楽しめるのであれば言うことはない。

この作品はそうした希有な成功作のひとつである。この作品を愛するが故に僕は薬師丸ひろ子を「今ではタヌキ顔のおばさん」などという連中には10トン爆弾を口にねじ込んで爆砕してやらねば,という憤怒に燃えるのである。

100年たっても可愛いぞ

「野蛮人のように」は薬師丸ひろ子の映画を挙げるときにたぶん必ず後ろの方にしか出てこないタイトルだ。

しかし,たとえ「セーラー服と機関銃」や「Wの悲劇」が忘れ去られても,数十年後の深夜映画でリピートされて密かに生き続ける,なんてのはこの作品の方だろうと思っている。

そのたびに「へえ,この女優さんチャーミングだねえ」とちょっとだけ愛され続けるのである。そんな姿がふさわしいのだ,この「野蛮人のように」という佳作は。