アトラス山越えでバスが衝突


〜モロッコ〜


最初ケーコさんを見かけたのは、カサブランカのバス待合室だった。随分日本人に会 っていない私には、彼女が日本人か中国人かわからないでいた。
偶然にも、マラケシュ行きの同じバスに乗りあわせ、日本人であることを知り、 日本語がとても恋しかった私にはまさに助け船であった。

7月のマラケシュの日中の気温は44℃、うだるように暑い。ケーコさんの学生証で、 冷房付のツインを半値以下の約1,500円に交渉し、一緒に泊まった。 午前中はメディナを散策、真っ昼間はとても出歩けなくホテルで涼み、夕方になると ジャマ・エル・フナ広場に出ていった。アクロバットの子供や蛇使いの大道芸人をひや かし、屋台でモロッコ料理を満喫した。 そして楽しい数日は過ぎ、それぞれの次への目的地へ向け出発する。お互いに良い旅 を祈りながら・・。


早朝のバスでアトラス山脈を越え“カスバ街道”で知られるワルザザードへ向かった。 その車窓からの絶景を楽しみにしていたのだ。荒れ果てた大地に、乾いた茶色の砂が 舞い、岩だらけの峠、そして深い谷・・。都会にはない風景が広がっていた。
突然ドッカンという凄い音と振動、バスは急停車した。 外に出ると反対車線には大型トラック。衝突のショックでどちらも動かなくなったよ うである。バスの左後方は大きくへこみ、後部車輪は外れていた。 バスの運転手らは、私たち乗客に何の説明をするわけではなく、ヒッチした車に乗っ てどこかに行ってしまった。多分電話があるところに行ったのだろう。 なにしろここには何にもない。ちょうど峠側に入ったところで、ほんの少し早くぶつ かっていたら谷底に転落・・したかもしれない位置だった。
代替バスが来るまで何時間かかるだろうか。外国人私ひとり、乗客約45名、トラッ クの運転手1名、とりあえずは全員無事であった。


3時間が経過した。
バスの運転手らは戻ってきて、バスを指さし何か言い合っては、また車でどこかに行 く、それを繰り返すばかり。
事故の当事者のトラックの運ちゃんは、身ぶり手振りでみんなを笑わせている。考え てみれば、イライラしたってどうしようもないことかもしれない。

5時間経過。約10名はヒッチに成功した。
残ったものたちは、各自が持参していた水やパンを分けあった。それがなくなると、 通りがかりのバスや乗用車から分けてもらった。バスで隣に座った女性のサディア をはじめ、誰もが私に気を使ってくれ、十分なほど分け与えてくれた。生水も飲んだ。 脱水症状になるよりはいい。

6時間が経過。私はトイレに行きたくてたまらなくなった。
方法は2つ、山に登るか、谷底に下るか。けど私が適当な場所をさがしてうろうろす ると、みんなが
「喉がかわいたの?お腹へったの?」
と心配してなかなか行けない。トイレに行きたいと言ったところで、注目されてもし ょうがない。谷底がいいようである。私はみんなの視線のすきをみて、谷底へ降りた。

8時間経過。午後7時半。山の中はうす暗く肌寒くなってきた。
みんなイラだちを隠せなくなってきていた。さすがにあの運ちゃんさえ無言になった。 半数はヒッチに成功し、残り20数名ぐらいか。
『今日はここで野宿かもしれない・・』
とあきらめかけてきた。


完全に暗闇に包まれてしまった時、向こうのカーブからライトが・・。みんなの視線 が一点に集まり、息を飲む。バスだろうか、乗用車だろうか・・。
「ブラボー!バスだ、バスだ、やっと来た」
誰かが叫んだ。大きな歓声と拍手が湧く。約9時間が経過していた。

出発はしたものの、この分だと目的地ワルザザードへの到着は夜の11時になってし まうだろう。その時間でどうやって宿をさがそうか・・。一難去ってもまた一難、 ため息である。
しかしバスの中は和やかな雰囲気に包まれていた。いろいろ気遣ってくれたサディア はまた私の横に座り、よかったね、と目配せをした。私は彼女にたくさんお礼を言い たかった。
ふと私のバックにケーコさんがくれた和紙のアドレス帳が入っていることを思い出し た。
「これ・・・ショクラン(ありがとう)」
そう言って、私はサディアにそれを差し出した。

サディアはとても喜んでくれた。そして何か私に言った。私と彼女はまったく言葉が 通じない。彼女は後ろの座席の、英語が少し分かるハッサンを呼んできた。
「今日はもう遅いし、よかったら私の家族の家に泊まらない?」
とサディアは言ってくれたのだった。


●次は起承転結そしてビョーキ(モロッコ)です。

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